2009年6月22日月曜日

インド世界遺産hampi


◎ハンピとは
14世紀から17世紀頃に繁栄したビジャヤナガル王国の遺跡として1986年にユネスコ文化遺産に登録された、南インド山間部にハンピ(Hampi)はある。本当に、ここが世界遺産なのか疑うほど、活気が感じられない所だ。多くの場合、途上国の世界遺産では、観光客目当てに、混沌が生まれるのだが、ここにはそれがない。
◎ハンピのよさ
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。まあ歩いていれば、10分に一度は必ず声を掛けられるインドだけれど。「ユーはアメリカか」「ちがう」「じゃあユーはロシアか」「ちがう」すると、それじゃあいったい君は何なんだ。という顔をする。そんな空気感が良いのか、個人の外国人旅行客がちらほらいる。
◎ハンピ寂静の日々
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。彼の手には藤原新也の「印度放浪」があった。彼は、本を差し出してくる。これは暇つぶしに良いと思って手にしかけたけれど、理性が叫んだ。お金を取られるぞ!「いくらだ」僕は先に尋ねた。「ただだ」「本当か。僕は金がない」「大丈夫だ、心配するな」「本当か」「もちろん。ただ君の持っている本がほしいだけ。私の夢は、ここの棚を外国語の本でいっぱいにすることだ」なるほど、案内された彼の家の(安宿でもあるようだ)棚には、英語、日本語、仏語、独語、西語などの本が並んでいる。特に日本語、独語が多い。僕は読み終わっていた、妹尾河童の「河童が覗いたインド」を贈呈することにした。そして、その日と次の日たっぷり二日間かけて、印度放浪を静かな遺跡の片隅でのんびりと読んだ。悪くなかった。
◎ハンピの観光客
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。写真を撮ってくれと言う。僕がカメラを肩にかけているのを見たのだろう。断る理由もないので撮った。話す。「ユーはヒンズーか」「違う」「我々はムスリムだ」「なるほど」「神はアッラーしかいない」「ふむふむ」「君は神を信じるか」「僕は神はいると思う。神は我々一人ひとりの心の中にいるんじゃないかな」「そうか、でも神はアッラーだ」そういって、彼らは満足そうに去っていった。さて、ハンピはヒンズー教の遺跡群である。そんなところに観光に来ているムスリムのインド人を見て、僕はなんだか幸せな気持ちになった。そもそも偶像崇拝が禁止のムスリムが写真を撮っていってほしいと言うところからして、ほっこりさせられる。おわり。

2009年6月16日火曜日

写真はカトマンズとカニャークマリ

寝てしまうものが好きだ。寝てしまう映画。寝てしまう小説。寝てしまう音楽。
いつの間にか寝ていて、やっべ、寝ちゃったよ。と思う。それにもかかわらず、体に、心にしみこんでいて、いつの日か、ふと、繋がって、それが思いもよらない気付きをもたらしてくれる。
そのとき僕はこう思う。あーそうか、自分の体にその何かを消化することにたくさん力を使ったから眠くなるのかと。わかりやすくって、おもしろくって、喜怒哀楽しちゃうものもよけれど、なかなかこういう気持ちにはさせてもらえない。

1Q84は比較的さらりと読めた。村上春樹がこれまでの小説で言いたかったことが、鮮明となって表れていたと感じた。きっと、これまでの作品のどれよりもうまく、自分の書きたいことがかけたのではないだろうか。と勝手に想像する。でも彼の言いたかったことは一貫してきている。これまでの小説にずっとにじみ出てき続けた。それがはっきりと言葉になったとき、それが今回の小説なのだろう。僕は、羊の巡る冒険あたりのもやもやとした、五回くらい読んで、五回とも途中何度も寝てしまって、でも読み続けて、それがある日、自分の日常生活に気付きをもたらせてくれる、そんな物語の方が、個人的には好きかも知れないな、とおもった。内容は、読んでみてください。言いません。


取捨選択のはなし。なんかの集まりと言うのは、たとえ、ある人が嫌いでも、その場の方を優先してその人に合わせようとする。それがマスであればあるほど、顕著に現れてくるように思う。
僕はたまたま個人的にそういうのが嫌いだったから、嫌いだから、今まで避けてきたし、今も避けている。出来れば個人対個人で、好きな人に会いたいし、嫌いなやつにも会いたい。
最近わかったことは、関係性がある程度の規模の集団だったとき、僕は個人という関係性に落とし込んで人間関係を作ろうとする、ようだ。ある人にとってはこれが好ましく映らないようだ。僕は、個人として人と接するなかで、たまたま、それが合わないで、こいつ退屈なやつだな、とか、あほだなとか、むかつくなとか、感じて生きていくというので大正解だと思うのだけれど、また、それが積み重なって出来た集合体には入っていきたいと思うけれど、そうでない、初めから集合を意識したり、個人的な関係でない部分で仲間を作ろうとすることははっきり言ってきょうみがありません。
子供だといわれても、社交性みたいなものがたりないなー、甘いなー、若いなーといわれても、いたしかたがありません。そうかんじるのです。人という器は、遅かれ早かれ、遺伝子によって捨てられるのだから、だったら僕は社交性なんかよりも、個人的な人間関係の中で、生きていきたいのだ。もしそれで立ち行かなくなって、本当に生きていけないような状況になったら、そのときまた考え直すことにします。ということで容易には考えを改めないでしょうということです。

ということで、大好きな皆さん、これからもよろしくおねがいします。こんなぼくですが、個人的な関係をこれからもつづけていきたいと思いますので。。。



インド最南端の日の出は、熱海の日の出と東京の日の出と、そう変わりはありませんでした。
でも素晴らしくよかったです。どれも素晴らしくよいということですね、つまり。
ドイツ行きたい!あうふびーだぜん!