2009年11月9日月曜日

インドの奥の深さ、ベトナムの奥深さ

◎インドの奥深さを感じた瞬間
僕はもう我慢できなかった。
2週間ほど前には宿のトイレまで我慢しようとして、宿のドアがなかなか開かず、トイレ一歩手前のところで、全部垂れ流すという恥をさらしていた。そんな経験があったので、今回は目についた最も近いトイレに急いで駆け込むことにした。インドのデカン高原にある田舎での出来事だ。

中に入ると、一目散に、便器へと向かった。しかし15ほどある便器はどれもうんこまみれで、足の置き場もなかった。とは言え、その程度ならば、何度も経験していた。「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、その中でもっともマシなトイレにしゃがみ込んで、無事便を終えることができた。




 しかし、問題はそこからだった。もちろんトイレットペーパーなどない。はじめからこっちもそのつもりだ。
「さて、右手で水を注ぎながら、左手でゴシゴシやるか」という段になって、はじめて僕は気付いた。そこにあるはずのものがないのだ。そう、水がなかったのだ。水がなければ、お尻がきれいになりようがない。いままで、僕が経験したトイレは、どんなに汚くても、水瓶だけはあった。それで、お尻を洗うことだけはできた。しかし今回はその水が全くないのである。
やるべきことは明確だった。とにかく水を探しにドアから外に出るのだ。一念発起して、僕は下痢によって未だ湿っているお尻に、左手をあてがいながら、ズボンを上げ、外に出た。するとあっさり巨大な水瓶が見つかった。助かった!僕はすぐにそう思った。そりゃそうだよな、インド人だってケツ拭かなきゃだもんな、と。でも、それも間違いだった。

間違いとは、つまり誤算のことである。ここには大きな誤算が2つあった。
①水がものすごく汚い。
②巨大な水をすくうものが何もない
そう、この2つが僕のお尻の洗浄に立ちはだかる巨大な障害だった。
①に関して。外に丸出しの水は虫だらけだし、茶色く濁っている。しかしどうしようもなかった。なるべく水の表面だけをスライスするように使う、これだけが対処法に思えた。
②に関して。桶は何もない。考えられるのは、手だけだった。しかし、どう考えても手のひらだけでトイレまで水をこぼさずに持っていくことはできない。さらに、右手はズボンをおろすのに使うから、必然的に、左手で水を運ぶことになるのだが、それでは湿ったお尻をあてがう手がない。
その場で、立ったまま下半身丸出しになるしかなかった。僕はその場でズボンを脱ぎ、パンツも脱ぎ、下半身丸出しになって、ゆっくりと左手で、水瓶から汚い水をすくい、それを塗りたくるようにして、お尻を洗った。
 
意外にも気持ちがよかった。ウソだ。さすがに、あまり気持ちのよいものではなかった。
トイレから出ようとすると、インド人の男の子が現れて、トイレ代の50パイサを要求してきた。
そんなトイレから歩いてほんの数分のところに、フルーツを売るおじさんがいて、そこにマンゴーがあった。一個10円もしないそのマンゴーはとろけるような甘さで、僕は毎日しゃぶりついた。ホントに甘くてうまかった。
ゼロを発見した国はこうも、奥が深いものかと感心した瞬間であった。



◎ベトナムの奥深さを感じた瞬間
ガイドブックよるとベトナムの中で最も有名なビーチであるニャチャンビーチは、「世界でも有数のリゾート地であり、とてもきれいである」とあった。「ニャチャン」というそのエロそうな名前といい僕は、是非行ってみたいと思った。
 世界遺産の町フエから、ベトナム名物、豪華スリーピングバスでニャチャンに着いたのは夜中だった。僕は宿を探すため、町を歩いた。
ニャチャンの町はゴミだらけだった。少しのスペースがあればそこはゴミ溜めとなっていた。暗い道を歩いているといつの間にかゴミに囲まれている、ということが何度もあったほどだ。
あーなんか中国のようだな、と感じた。においも近い。そんな中国が僕は好きだけど、ニャチャンには求めてない!と、僕はそう叫びたかった。





 次の日の早朝4時に僕は朝日を見るために宿を出た。薄暗い町をしばらく歩いているうちに、あることに気付いた。ゴミがないのだ!僕は一瞬自分を疑った。しかし、どう周りを見渡してもゴミはきれいさっぱり取り払われていた。つまり。夜中の12時から早朝4時の間にゴミが全部掃除されたことになる。ベトナムすごい、単純にそう思った。目についた、湯気が立つ屋台へ行き、フォーを食べた。めちゃくちゃうまかった。  



そのまま、ビーチへ行き、朝の4時30分にもかかわらず、ほんとうにたくさんのベトナム人がいた。水浴びをしたり、体操をしたり、歌を歌ったり。みんな笑顔だ。誇らしげだ。楽しそうだ。
1時間後、眠くなったので、宿に戻ろうと帰路についた。すると、先ほどめちゃくちゃうまかった、フォーの屋台のおばさんが屋台のすぐ隣のスペースにゴミを捨てまくっていた。まだ朝の6時前だというのに、結構な量のゴミが溜まっていた。
ベトナムの奥の深さを感じずにはいられなかった。

住みたいと思えたところ

◎8月のエルサレムに恋して

冬のエルサレムはどうかわからないけれど、8月に訪れた夏のエルサレムは最高だった。新市街にあるマハネ・イェフダ市場の活気。そこでは、焼きたての香ばしい匂いがするパンやたくさんのお惣菜が、食される瞬間を待ち、おいしくて安いワインが豊富な種類のチーズと出会うのを待っている。新鮮な野菜や果物も実にいろんな種類があり、オリーブやアンチョビなんかも種類が豊富で、歩いているだけで、いろんなサンドウィッチのレパートリーが頭をよぎり、よだれがたれてくる。この市場があるだけで、ここに住みたいと思えるほどだ。




 また、市内の見所は旧市街に集まっていて、気負いせず歩いて観光が楽しめる。ゴルゴダの丘、嘆きの壁、岩のドームにオリーブ山。観光客が少し多めなのが気になるけれど、世界有数の観光地にしては、ゴミゴミ感が少ない。買い物も確かに値段を吹っかけられることがあるけれど、インドやエジプトやモロッコに比べれば、赤ん坊も同然。













 それでもエルサレムに住みたい!って思えた最たる理由は、その気候にある。とにかく「風」がよい。からっとしていて、ほどよく冷たい風。その風は、世界でも指折りだ、と僕は感じた。ゲストハウスにいても、ちょっと窓を開ければ、その「風」が入ってきて、気持ちがよい。冷房も扇風機もその「風」の前では邪魔なだけだ。そして、澄んだ青い空…

ある日、夕刻に新市街を散歩していたら、ちょっとした芝生の広場でフリーライブに出くわした。芝生に寝転んで、ワインとチーズとパンでほろ酔いになりながら、優雅でクラシカルな音楽を聴きながら、この世で一番気持ちのよいと思える風を浴びながら過ごす時間は、「至福」としか言い表すことのできないものであった。




◎皇帝が愛したボスポラス海峡に臨むイスタンブール

ボスポラス海峡に臨むイスタンブールは、ローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国やオスマン帝国の首都であった。この町には実に長い長い歴史が存在する。交通や貿易の要所であったことがその最たる理由ではあるだろうが、イスタンブールはそれだけではない。歴史地域にある丘からのボスポラス海峡の眺めが、これがもうほんとうに最高なのである。


 おそらくこの風光明媚な「景色」を我が物にしたくて、かつての君主たちはこの地を必死に得ようとしたのだと、僕には思えた。案外、貿易なんて二の次だったりする。人間の行動理由なんて実はそんなものだ。海は青く、空も青く、気候も素晴らしい。ゆったり海を眺めるのに申し分ない。それだけで、イスタンブールも住みたい町のランキングが上位に入る。








◎貧乏旅行者が愛したラマダン中のイスタンブール

 日没が近づくと、イスタンブールの至る所で張られている巨大テントやワゴン車で食事の準備が始まる。人々は、仕事も遊びも観光もほったらかして、一斉に列をなす。そして、日没の合図が流れると同時にテントでは食事が配膳され、ワゴンではお弁当をばらまく。







僕がイスタンブールにいるとき、ちょうど断食(ラマダン)の時期であった。これはけっこう有名な話だけれど、イスタンブールでは、ラマダンの時期、無料の食事が至る所で食べられる。僕みたいな異教徒でも、邪見に扱われることもなく、食事を毎晩タダでいただくことができた。意外と物価の高いトルコを旅する貧乏旅行者にとってはひじょうにありがたかった。





とは言え、イスタンブールでは他の多くのイスラム地区とは違いラマダンでも店を開けているレストランも多く、昼間に食事をしようとしてもあまり困ることはない。だから、貧乏旅行者でないとしても、ラマダンだろうがイスタンブールを十分に楽しめるので、無駄な心配は無用なのである。