2011年11月9日水曜日

10人兄弟とコイン@インド最南端カニャークマリ


●夕日と朝日が共鳴するところ

「朝日が昇り夕日が沈む聖地」と誰かが遠くを見る目で語る。
なんでも、「同じ立ち位置で、海から現れる太陽を拝み、海に消え行く太陽にお別れを告げることが出来る」と言うのだ。

昔から最南端だとか最北端、あるいは東南アジア最大だとかいった言葉に弱い。最北端に魅かれ宗谷岬を、東南アジア最大に魅かれトンレサップ湖を訪れたこともあった。
その聖地はカニャークマリと呼ばれる。インド最南端に位置する南インド旅のハイライトである。
ミナークシー寺院で有名なマドゥライから列車で約12時間、終点であるカニャークマリ駅に到着した。

最北端の地、宗谷岬
●隣の部屋の宿泊客

「おにーさん、どこから来たの?」
開け放たれた窓の鉄格子越しに見えたのは、1人の子供の姿だった。腕時計を見ると朝の7時。その日の僕は朝日を拝むために朝4時に起きていた。眠い目を擦りながら、子供のいる廊下に出る。
「日本からだよ。君は?」
彼はそれには答えず、ウシシシシとだけ笑い、隣の部屋に入って行った。そうか、隣の部屋の宿泊客か…。部屋に戻って、荷物整理をすることにした。午前のうちに次の町へ向けて出発するつもりだった。
「コンコン」しばらくすると、ドアを叩く音がした。
また来たな…。僕は彼を喜ばそうと各国で集めてきたコインを探した。大切に集めてきたけれど、少しくらいならとコインを入れた小袋を片手にドアを開ける。
すると、彼は3人になっていた。正確に言うと弟2人を引き連れてきていたのだ。一瞬たじろいでしまった。
3人を部屋に招き入れると、彼らは僕の荷物に興味を持ち、「これはなに?」「こうして使うんだよ」「すげー!」となった。悪くないなぁ、と僕は少し得意げな気持ちになる。
彼らの興味は永遠と尽きそうになかったので、「みんな、そろそろ、やることがあるから行きなさい! ほらほら〜」と部屋から出てもらう。
「あ、そうだコインをあげる」と最後に1枚ずつコインを選び取らせてあげた。ありがとう! バタバタバタッ。
彼らは嵐のように去っていった。

カラフル衣装がたまらない

●僕がその宿に泊まったワケ

マドゥライからカニャークマリ駅に着くと、徒歩で最南端の岬に向かった。途中、日本人の女の子とすれ違う。(やっぱり日本人は世界中にいるなぁ、そりゃ1億2千万人もいるんだから全世界の人口から考えれば、60人と出会えば日本人に遭遇する計算なわけで、当たり前の話だよな〜。これが、人口50万のルクセンブルク人だったら違うだろうな。そういえば、ルクセンブルク人の僕の担当教授は元気かな〜)などと考えていると、呼び止められる。
「あれ、もしかして日本人でした? あ、やっぱり! こんなとこで会うなんてすごいですね、南インドって全然日本人に会わなくて」
振り返ると、すれ違ったはずの日本人の女の子がいて、畳み掛けるように話しかけてきた。
「その荷物…ってことは、今着いたんですよね? 宿紹介しましょうか? 私のところ一泊100ルピーで泊まれますよ、私は女の子だってことで80ルピーにしてもらいましたけど!」
彼女は随分と愛想良く笑う。でも、全然心がときめかない。
恋愛に価値観というファクターはとても重要だと聞くが、まさにその通りだと思う。僕は日本人の彼女を見ても全然すごいなんて思わなかった(もちろん、少しは気になるけど)。対して、彼女はそう思った。まさに価値観の相違だ。

意外と多い家族連れの参拝者たち

彼女の強い推しで、僕はその宿に泊まることになった。90ルピーだった。
価値観どうのこうのと言っていても、「オシに流されるのもまた、恋愛である」と格言めいたことが頭に浮かぶ。
やはりメシは一緒にいくのだろうか…、そしたらその後も流れで、ビールでも飲みながら談笑して…むむ!
アラビア海に沈む夕日

ベンガル湾より出づる日の出

彼女は僕を宿まで連れて行くと、自分の荷物を背負い、「では、私は次の町へ行きますね、またどこかで!」とあっさり出て行った。

恋愛とはあまのじゃくである。

●似て非なる夕日と朝日

そんなこんなで、僕はその宿に泊まり、アラビア海に沈む夕日を眺め、ベンガル湾から昇る朝日を拝んだ。


荷物整理を終え、朝食のために宿を出る。南インドは飯がうまい。
ミールスと呼ばれる定食とチャイを飲んで、満足げに宿へ戻ると、先ほどの3人のうちの年長の兄が、「他の弟も欲しいとねだるんです、連れてきてもいいですか?」と聞いて来た。
ちゃんと、許可を得るところが可愛く感じられて、僕は快諾する。コイン、もう少しくらいなら余っているからいいよ、連れておいで。
僕はコインを1枚握って廊下で待つ。だが、やってきたのは6人の男の子だった。合計9人兄弟!? あわてて部屋に招き入れ、コインをベッドにぶちまける。
「ほら、みんな1人1枚だけ選んでいいよ」
内心ハラハラだった。とりあえず、1ヵ国につきコイン1枚だけは残したかったから。その時点ですでにベトナムのコインが残り1枚…。頼む、ベトナムコインを選ぶないでくれ! そう願っていると、みなタイバーツだとか日本円(500円玉も地味に痛いので、選ぶな! と願った)だとかを選ぶ。祈りが通じたのか、無事ベトナムコインは守られた(500円玉も)。
「さようなら」の段になって、何人かの子供たちが見送りにきてくれた。
健気で可愛いでないか! ぜひ写真を撮らせてほしい、というとみんな快諾してくれた。
ファインダーを覗くと、初見の女の子がいることに気づいた。
どうやらみんなの姉らしいが、弟たちの影でモジモジしていた。はて? そうか、弟たちの手前、コインをねだれないのかもしれない、きっと姉として“おねだり”はプライドが許さないのだろう。
みんな顔が一緒! …あれ? 1人だけ違う?

●最後のコイン

僕は荷物を忘れたフリをして少年たちをその場に待たせることにした。急いで部屋に戻り、慌ててカバンからコインを1枚取り出し、ポケットにしまう。
彼らのところに戻ると、仕切り直して、写真を撮った。
撮影を終えると、僕は、「あ、そういえば、もう1枚コインがポケットに余っていたなぁ、特に要らないから、どうしようかな、あ、そうだ君にあげるよ」と、さりげない感じで彼女に渡した。彼女も、「まぁくれるのなら、もらっとくわ」といった面持ちで受け取る。
だが、渡して気づいた。その1枚は、ベトナムの最後のコインだったのだ。僕は自分の顔が少し引き攣るのを感じた。
何かを察したのか、彼女はさりげなく僕に微笑んだ。


おねーちゃん登場! 

2011年10月25日火曜日

クアラルンプールはそこそこに、僕はペナン島へやってきた。


●その道の先にあるもの

この坂を登ったら折り返そう。
この曲がり道の先を見たら引き返そう。
次の集落を見学したら帰ろう。

同じようなことを何度も思った。けど僕の足は自転車のペダルを踏み続けた。


坂を登った先には下り坂があった。アドレナリンがあふれ出てくる、その勢いをそのままに、自らの力で登った分の坂を今度は一気に駆け下りる。
坂を下り終えると、我に返った。そして来た道を振り返る。同じ道を、それも坂道を、引き返したいとは思えなかった。

曲がり道の先には、さらなる曲がり道があった。曲がり道があると、その先の風景は見えない。先も見えないが後ろも見えない。一度すぎた曲がり道。振り返ると、自分がいま通ったばかりの道は当然見えなくなっていた。でも、僕はその先(後ろ)の風景をもう知っている。知っている道よりも、知らない道のほうが魅力的に感じるのは当たり前の話だった。曲がり道を引き返す気にはなれなかった。

●ペナン島の大きさ、フェリンギビーチで待つ女の子

僕は頭の中でペナン島のサイズを推し量る。世界地図の中でのペナン島、いや、クアラルンプールのバスターミナルでもらったマレーシア全土の地図にあるそれのほうが想像しやすいか。前年に北海道をバイクで一周したときに出会ったチャリダーの一人が言っていたことを思い出す。
「だいたい、一日で80kmから100kmくらいの移動です。それ以上だと毎日走るのが辛くなります」
なるほど、100kmくらいだったら帰れるというわけか、それなら(地図を想像するに)行けそうだなと思っていたところ、緑の看板でジョージタウンと表示されていた。距離は書いていないが、この道を行けば、僕が泊まっているジョージタウンの安宿に帰れるのだ。
ひと際急な坂にさしかかった。町中で借りた古ぼけた自転車はタイヤの空気が甘くてなかなか前に進まない。汗だくになって、坂の頂上についたときには決意が固まっていた。このままペナン島を一周したらいいじゃないか、と。

本当はジョージタウンから10キロあまりにあるフェリンギビーチを訪れるつもりで自転車を借りた。綺麗な海のあるリゾート、現地のビーチボーイたちが観光でやってきた女の子を口説く情景が頭に浮かぶ。そんな彼らに嫌気がさした女の子とお話でも出来たら…、そんな空想を頭に描いて僕はフェリンギビーチに到着した。風が心地よい。朝一でジョージタウンを出てよかった、あのヤシ林の向こうに、楽園があるのだなと、自転車を電柱にくくりつけ、ビーチへと足を向ける。

ビーチはただただ汚かった。そこにはリゾートという雰囲気は皆無だった。
僕に“助けを求めるはず”の女の子の姿はなかった。だからというわけではない(はずだ)が、厭世観というのか、嫌悪感というのか、もやもやした気持ちにとらわれた。
早々にビーチを離れることにした。

ジョージタウンに戻る気にはなれなかった。なにせまだ正午にもなっていない。
そこで島の奥部である西へ向かうことにしたのだった。

●はたの食堂には食事のサービスはなかった

チャリダーと出会ったその宿は紋別町にあった。急な雨が降ってきた夕暮れ、9月だというのにオホーツク海から吹き込む寒風で、かなりしんどかった。そんなとき目に飛び込んできたのが、その宿の看板だった。
そこには、「ライダー&チャリダー共和国」とあった。ライダーハウスという、バイクか自転車(あるいは徒歩)で旅をする人のための宿である。
助かったと胸を撫で下ろしたのだが、実はその宿がかなり曰く付きの宿だった。
宿主のおじちゃんは畑野さんといって(そのまんまです)、人はいいのだが、まぁよく飲まされた。さらに語らされた。
「好きな言葉をこの紙に書いて、自己紹介とともに夢を語りなさい」と紙とペンを渡されるのだ。そんなの無理だよ…と思っても、その日泊まっていた10人ほどの全員が強制でやらされた。しかも、制限時間が決まっている。「3分以上」という…。
元来、人前で語ることが苦手な僕なので、これはかなりキツかった。さらにお酒もたいして飲めないのにとにかくどんどん勧められる。しかもその酒というのが、焼酎の牛乳割りのみである。畑野のおじちゃん曰く、これが一番胃に優しいのだと得意げに話していた。健康を気にするくらいだったら飲まなければいいのに…。
だが、今日もはたの食堂はあるらしい(ネットで調べたところ)ので、その説もあながち間違いではないのかもしれない。

●讃えられたチャリダーは彼女たちの期待に応えることが出来なかった

話が逸れてしまった。

日が照りつけ、気温が最高に達した頃、僕はペナン島の最南端に着いた。ここから東海岸を北上すればジョージタウンだった。そこからの道は本当に辛くて、とてつもなく長く感じられた。熱さと渇き、そして尻の傷み(サドルがやけに固かった)で、ろくに前を見ずに、ただひたすらにペダルを踏んだ。車の交通量も多く、自転車なんて僕以外誰もいなかった。いつのまにか、自動車専用道路のようなところに入ってしまい、周囲の車が時速100キロくらい出している中、ぎこぎこと進んだ。けっこう死ぬ思いだった、いやほんとうに、あっさり書くけれどさ。

日も傾きかけた頃、見覚えのあるジョージタウンの町が見えてきた。ただ、そこからさらに僕の泊まっているLove Lane Innという宿を見つけ出さねばならなかった。
何度も同じ道を行ったり来たりしながら、ようやく宿に戻れたのは完全に日が落ちてからだった。
やっとのことで、自転車を宿の壁にくくりつけて、テラスに座って休むことができた。

頭がぼぉっとして、頭が働かない。何でこんなことになったのだろう…という気持ちに苛まれた。

「そうだ、ビーチにギャルがいなかったせいだ」と頭の中でフェリングビーチに悪態をつくことにした。頭の中が、悪態でいっぱいになってきたとき、ギャルの声が遠くから聞こえてきた。幻聴…?
「なんだ、なんだ、今さらになって呼んだってダメだぜ。おれはもう疲れているから寝る。他の男のところに行きな!」いきがる自分を頭の中で夢想する。

女の子の声は一向に途切れない。どうやら幻聴ではないらしい。宿の主人にもらった水をぐいっと一気に飲んで顔を上げると、そこには本当に数人の女の子がいた。
「おにーさん! こっちきなよ!」
「暇なんでしょう?」
みな、大きな声で僕に話しかけてくる。時折大きな笑い声もする。wan hai hotelと書かれたその宿の入り口にいた娼婦らしい女の子たちは、飽きずにいつまでも僕に声を掛けてくれた。
マレー語がわからない僕は、段々と、なんだかその日のペナン島一周の頑張りを誉められているような気がしてきて嬉しくなり、夢見心地のなか、彼女たちの笑い声をいつまでも聞いていた。

何時間経ったのだろうか。数十分だろうか。ふと、我に返ると彼女たちの姿はなかった。目の前で宿の主人がコクリコクリと眠る姿だけが、変わらずそこにあった。





そして翌日、僕は疲れを取るため、日がな一日宿前のテラスで読書に耽る。そして、事件に遭遇することとなった…。

2011年10月20日木曜日

「世界遺産」の町、マラッカへ


●マレー鉄道は快適だった

マラッカへ行くために降り立ったのはTampinという駅。
ここからバスでマラッカに向かうつもりだった。
Tampin Railway Stationは質素な造りで、周囲にお店らしいお店もレストランだとかホテルといった類いの建物も見当たらない。肝心のバスはなく、数台のタクシーのみがとまっていた。



そのタクシーも数少ないTampinで降りた乗客が乗り込み、残り1台となってしまった。
慌てた僕はおろしていたバックパックを担ぎ、タクシーへと向かった。が、最後の1台のタクシーも、マレー人の女の子が先に乗り込んでしまった…。

町の方向さえわかれば何とかなる、と思い込んでいる僕はこの旅のためにコンパスを用意してきた。
「困ったら、歩けば何とかなる。コンパスに従って南西に向かえばいいだけのことだ」と一人ほくそ笑む。タクシーを諦めることにした。
むしろ、「これこそ旅だ、こんな状況こそを楽しまなければ意味がない」と思い、気分が高揚してくる。旅に出て4日目にして旅の玄人にでもなったかのような気持ちだった。そんなふうに悦に入りながら、南西方向にあるマラッカまで歩み始めたら、最後のタクシーに乗り込んだ女の子に声をかけられた。

●女の子に声を掛けられるなんて久しぶりだ

「あなたどこへいくの?」
振り返ると、タクシーの窓を開けたマレー系の女の子が英語で尋ねてきた。
マラッカに行きたいことを伝えると、女の子はタクシーを降りて僕のカバンを奪い取った。自分の置かれている状況がよくつかめなかった。
女の子は僕のカバンを荷台に積み込んで、「ハリーアプ!」と少し不機嫌そうに僕を睨んだ。
なんかイケナイことしましたっけ?? ハテナ顔でいると、女の子は僕をタクシーの中へ押し込んだ。
「私とあなた、1RM(リンギット)ずつよ。さぁ運転手さん出して!」(※1RM=30円弱)
訳もわからぬまま、タクシーは駅を離れていく。

●コンパスあれば憂いなし

先ほどまで不機嫌そうだった女の子の表情は幾分和らいでいた。不機嫌だったと言うか、単純に急いでいただけのようだ。
僕は少し安心して座り直した、意外と快適なマレーシアのタクシーの椅子に感心して。案外ラッキーだったのかもしれない。タクシーなのに1RMでマラッカまで行けるのだから、かなり安いだろう。さすがローカルのひとが交渉すると違うもんだなぁ。
とは言え、その女の子は僕に惚れこんで声を掛けてきたわけではないことは、一目瞭然だったので、冷静沈着な僕はさっそくコンパスで、きちんとマラッカに向かっているかを確認することにした。
(マラッカはここから南西だから、ええっと、ええっと、こっちのほうに行くべきなんだけど、どうかなぁ、あれ、いや、ん、待てよ? って、まるっきり反対方向じゃん!)
すぐさま、僕はタクシーのおじさんに降ろしてくれと伝えるよう、女の子に通訳を依頼した。
しかし、「ノーウェイ!」と、一蹴される。えぇ〜、それはこっちのセリフだよ!
コンパスを見せ、マラッカはサウスウエストだと主張するも一向に取り合ってくれない。
「このコンパスは日本製だよ? 正しいんだよ? きみわかってるかい?」
女の子は黙って頷くだけだった。運転手と女の子がグル…? まさかの事態が頭をよぎる。

●恋の種は常に蒔かれている

着いたのはバスターミナルだった。
女の子は急いでいるふうで、そそくさとタクシーを降り、近くにいた女性に声を掛けて自分のバスへ駆け込んでいった。
その女性はおもむろに近づいてきて「あのバスよ」とマラッカ行きのバスを教えてくれた。どうやらさっきの女の子が説明してくれたらしい。
「お礼を言わなきゃ!」
そう思ったときにはとき既に遅し。彼女の乗ったバスは轟音を鳴らしてバスターミナルを出て行ってしまった。
彼女に悪いことをしたな…人の優しさよりもコンパスを信じていた自分が恥ずかしくもあった。
あるいはあんなに親切な女の子だったら、マラッカは後回しにして、彼女の住む町だか村までついていってもよかったかもしれないなぁと思考は一気に180度変わる。人間とはゲンキンなものだ。人間というか僕がということだけど…。
あまりにコンパスに頼るのはやめよう。このとき、そう決意して僕はマラッカ行きのバスの乗り込んだ。

●ここは、ほんとうに世界遺産なのだろうか…

バスは小学校の下校時間と重なったのか小学生で超満員。次から次へと小学生が乗り込んでは降りていく。

「うししし、ばいばい! またね!」
「うん、またあした!」
くり返される、笑顔で溢れたさようなら。日本でも、中国でも、ヨーロッパでも、どこででも見られた小学生たちの騒がしくも微笑ましい情景。

そんな彼らを眺めていると、あっという間に1時間半が経過。日が暮れ始め、バスが静けさに包まれたころ、マラッカに着いた。

僕にとってマラッカといえば、マラッカ海峡が一番に頭に浮かぶ。スエズ運河やパナマ運河と並んで世界でも指折りの舟の交通の要所であり、その歴史は大航海時代にも遡る。憂愁という言葉が似合う町をイメージしていたのだが、いまいちぴんと来ない。
マラッカは至る所で工事をしていた。歴史の町としての観光地を目指すと標榜するが、どう見ても歴史の浅い綺麗で整然とした都市へと向かっているようにしか見えなかったせいであろう。
チャイナタウンや旧市街にそれなりの歴史的な雰囲気が見受けられたが、テーマパークのような乾いたような空気に包まれ、ここが「マラッカ海峡の歴史的都市群」として世界遺産(文化遺産)に登録されているとは思えなかった。
よほど、Tampinからマラッカに向かうバスのほうが、僕にとっては興味深いものであった。
「旅の醍醐味は人びとの生活にふれることであるのかもしれない」
そんなことをダニのいる安宿の8人部屋のドミトリーで考えた。部屋は僕一人だった。

翌日の夕方、一通りマラッカの町を歩いた僕は夕日の沈むマラッカ海峡を眺めるためにセントポールの丘に登っていた。
頂上はまだ先だった。ふと、そろそろ見えるかなと後ろを振り返ると、マラッカ海峡が遠くに見えた。マラッカ海峡には数隻の大きな舟があるだけで、他におもしろいものは何もなかった。夕日も濁った空と雲に隠れて、美しくも何ともなかった。
頂上まで登るのはやめにした(昼に一度来ているし…)。
3-4日は滞在するつもりだったマラッカだった(お気に入りの定食屋も見つけていた)が、そんな空を見ていたら、いても立ってもいられず、その日のうちに、クアラルンプールに向かうことにした。

2011年10月12日水曜日

ルアンパバーン行きのスロウボート 後半


●パクベンのレストラン

待てども待てども出てこない。というか店員さんの姿すら見えなくなってしまった。1時間たっても野菜炒めすら出てこなかった。ただただ時間だけが過ぎた。
「おいおいおいおい、メシ喰わせろ! おせーぞ、どうなってんだラオスさんよ!」
「お客さま、少々お待ちください。もうまもなく料理のほう出来上がりまして、お持ちいたします、それまでの間こちらのサラダをお召し上がりください」
「けっ、俺だからそこまで怒らんが、フツーの客だったら帰ってるぞ!」
なんていう状況にはならず、僕は日本人らしくクレームのクの字も言わずにジッと堪えた。いや堪えてすらいない。苛立ちすらなかった。なにせ、このBeer lao(ビアラオ)が美味いのだ。東南アジアのどの銘柄よりも。ビアラオを飲み、黄昏どきの涼しい風を全身に浴びていると、これ以上ない幸せに包まれた。
「あぁ、あるいはこのまま料理が出てこなければ、永遠にその幸せが続くのではないか」と、そう思えてしまう。
ついに1時間半を経過しても何も料理は出てこなかった。
……気づくとお兄さんが立っていた。
幸福感だけで腹は満たされないことに気づき始めた矢先だった。ようやく食べられる。この1時間半は美味しく料理を食べるための前菜だったのだと思えた。空腹は最大のおかずだ。いちおう、今後やってくる観光客のために「ふっふっふ、なんとか、寸でのところで怒られずにすんでよかったですな、社長さん!」と嫌みの一つくらいは言ってやろうかと思った。
が、彼の口から出てきたのは、「マリワナあるね」という言葉だった。僕は自分の目と耳を疑ったが、聞き間違いではないようだ。
ラオスはそう甘くはなかった。淡い期待は余計に自らを落胆させる。彼の手にはパッケージに包まれたタバコの葉のようなもの、出てきた言葉は東南アジアのプッシャーの常套句だった。そう、彼はプッシャー(密売人)だったのだ。料理はまだまだ遠いらしい…。
「マリワナ買わないか? 安くて上物だよ」
「いや、安いのはいいけど、ここレストランですよ…」
「ここ、警察いないからノープロブレムね。これで10ドル、どう?」と出してきたパッケージには、わんさかとマリワナが。これで10ドルは安すぎる。ごくりと喉の音がした。が、空腹のほうが上回った。
「僕はご飯を食べたいんだ。だからマリワナなんて要らない!」つい声が大きくなってしまった。彼はなぜこいつは大きい声を出すのかと、びっくりした顔で引き下がっていった。

●ビアラオの恐怖

何気なく外に目をやると、店員さんがレストランに戻ってくる姿があった。
「ど、どこいってったんだ!」もうさすがに、堪忍袋の緒が切れた。僕は彼に文句を言ってやろうとキッチンに向かった。
「おい、君」クラッチを握り、ギアを一気に2段上げる。
「どうなってるんだ!」さらにギアを上げ、4速に入れる。
悪気はないらしい。笑顔で振り返った彼に、畳み掛けようとギアを最大の5速に。
「り、料理は、まだ来な…」と言いかけて、彼の背後に整然とBeer laoが並んでいるのが目に飛び込んできた。う、愛しきビアラオ!
「料理は、まだ来なくてもいいから、とりあえずビアラオちょうだい!」
あぁ、ビアラオの恐怖。
パクベンには毎日のように僕らのようなバックパッカーが訪れる。このレストランもその恩恵に預かり、それなりにお客さんがやってくることは容易に想像できる。それでもこのゴーイングマイウェイでスローな接客のままなのは、そのほとんどがスローボートで夕方に着いて、翌日の早朝に村を出ていく一見さんばかりだからだろう。そしてみなビアラオの美味さに文句が言えず、安穏とした接客が続く。あるいは旅人たちがこのラオスでのノロい“接客体験”を武勇伝のように語ることも作用しているのかもしれない。
「いや、ラオスのレストランはさ1時間半も料理が出てこないんだよ、参っちゃったよ」と満面の笑顔を浮かべて語る姿を見て、周囲の人はみな「あぁ、そんなのもアリだな、だってラオスに行ったんだもの、そのくらいのことは経験としてむしろ味わいたいものだ」と感じるのかもしれない。そうしてこのレストランはいつまでたっても、このままなのである。

●新鮮な食材に舌鼓をうつ

パクベンのレストランについてツラツラ述べてきたが、実際のところ1時間半も料理が出てこないのは、注文を受けてから食材を買いに行くことによるところが大きい。
逆にそれだけ新鮮なのかもしれない。ラオスで牛肉といえば、水牛を指すことが多いが、総じてそんなに美味くない。が、ココで食べた1時間半待たされた水牛は結構イケた。

その日の宿であるゲストハウスに戻ると灯りが全て消えていた。そういえばレストランもいつの間にか看板の灯りが消え、それぞれの机にある頼りないランプの灯りだけになっていた。おそらく送電が終わったのだろう。停電かもしれない。
そこで合点がいった。レストランが食材を持たないのは冷蔵庫が意味をなさないからだろうと。一日に何度も電気が途絶えれば、肉はすぐに腐ってしまうだろう。だから備蓄はしない。当然の考えである。


僕らのスローボートは明朝、時間通りにパクベンを出発した。スローボートはルアンパバーンに向けゆっくりと進む。その船の歩みは、ただただメコン川の流れに身を任しているだけのように思える。

2011年10月7日金曜日

旅の初日は、アイスクリーム事件

◯“先進国”シンガポール

安宿がひしめくらしいリトルインディアに行けば何とかなる、僕はそう思って日本を発った。

2008年4月1日の、200日に及ぶユーラシア大陸横断の旅への初日のこと。
海外へのフライトが往々にしてそうであるように、僕が乗った飛行機も定刻通りとはいかなかった。空港到着は、3時間遅れの深夜の2時前。そうは言っても、先進国であるシンガポール。空港を出れば、市内へ向かう交通機関は整っているはず…。
そう思い、僕は空港の外に出た。すると南国特有のモワッとした空気に包まれた。あ〜これだ。この感じがたまらない。体は少し気怠いけど、心がメルト状態になって、セロトニンが分泌されていくのがわかる。
ANAの往復チケットでシンガポールに来た。始めから、帰りのチケットは捨てるつもりだったが、この空気に触れて改めて、旅の高揚感が増してくる。
帰りの航空券を破り捨てることにした。51070円の航空券だったので、その半分の25535円を捨てたことになる。それだけの経験を得るのだと僕は鼻息が荒くなった。

市内へ向かうバスは既になかった。仕方なくタクシーに乗り込むことにした。

◯安宿ひしめくはずのリトルインディア

タクシーから地下鉄のlittle india駅が見えると、僕はタクシーの運ちゃんにココで降ろしてくれればいいと言って、タクシーを降りた。さすが、大都会シンガポールのタクシーである、ボッタクリとは無縁だった。

直感的に安宿は駅から近くにあると思っていた。容易に見つかるだろうと、浅い考えの元、周囲100メートルを探すも、宿はなかなか姿を見せない。すでに夜中の3時をまわっていることもあり、町は静けさに包まれていた。
ちょっと焦ってきた所に、優しそうな浅黒いインド系シンガポール人が通りかかった。

◯親切なお兄さん!?

「すいません、このあたりで安い宿を探しているんだけれど、知りませんか?」
空港で手に入れておいた、簡単なシンガポールの地図を片手に、笑顔で声を掛ける。
彼は聞こえているのか聞こえていないのか、あまり反応がない。僕の英語が悪いのか?
「あの、ホテルってこのへんにありませんか?」
と言い方を変えてみる。彼はわずかながら、微笑みを見せた。あーよかった、わかってくれたんだ。僕はホッとして彼の第一声を待った。
が、いっこうに教えてくれない。すると彼は、おもむろに僕の手を取り、少し離れた所にある街灯を指差した。
「なるほど、あの灯りの下で地図を見せろというんですね」
そう言いながら、僕は彼と手を繋ぎながら、歩いていく。彼の手は柔らかかったけど、すこしだけ汗をかいていた。でも彼の微笑みを見たら安心できた。「タクシーでもボラなかったんだ、シンガポールは絶対に大丈夫だ」そう思っていた。

街灯の下へ着き、僕が地図を開いて安宿の場所を再度尋ねようとすると、なぜか彼は、もぞもぞしだす。そして路駐してある車の影に、引っ張られた。
おかしいなと思いながらも、彼から手を放し、地図を広げて、「この辺りだと思うんですけど…」と言いながら地図から目を上げてみると、彼のイチモツがぶら下がっていた。
左手でズボンを下げ、右手でモノを支え、僕に微笑みかけている。そんな彼の姿は、あまりにも自然だったので、僕は一瞬何が起こったのかわからなかった。2、3秒、僕の体は硬直してしまった。

◯確かに“アイスクリーム”は食べたいけれど…

お互いが硬直したまま、数秒がすぎた。彼は彼で、その状態から動くことなく、ジッと待っていた。そしてようやく重い口を開いた。
「アイスクリーム、プリーズ」
おぉぉ、海外は、お口でスルことをアイスクリームで言うのか! 勉強になるなー! 何てことを冷静に考えられるわけもなく(そもそもこんなことがあったからhttp://unendlicher-tanz.blogspot.com/2010/09/blog-post.html サックだと知っている)うわーーーってなる。
うわーーーーってなって、僕の体は硬直状態に。
彼は踏ん切りがついたのか、早く舐めろとばかりに、プルプルと振ってくる。
気付くと、彼の左手が僕の腕をつかむ間際だった。
やばい! 逃げろ。
僕は自分の足に、命令を送った。だが、僕の足はなかなか言うことを聞いてくれない。
中学2年生の時に初めて女の子に好きだと伝えるときと同じくらい、「思い切り」が必要だった。あのとき、僕は告白するのに、10分ほどかかった。結局気の利いたことは言えず、「付き合って下さい」とだけしか言えなかった。
この時は10分なんて猶予はない。今すぐ動かなければならないのだ。
「動け、動くんだ足!」心の中で叫び続ける。
するとたまたま通りかかった車のヘッドライトが僕を照らした。それが功を奏したのか、足が動くようになった。
そして300メートルほどの全力疾走。
一度だけ振り返ると彼はバイオハザードのゾンビのように、ゆっくりと歩いて僕の方に向かってきていた。
その姿を見て寒気、いや悪寒が走った。
僕はそれ以上振り返ることはなく走り続けた。

◯初めからそうすればよかった

走っていると、Hotel 81 Selegieという看板と灯りが見えたので駆け込む。そんな僕を見て、驚いたフロントの女の子が、「どうしたの?」と聞いてきた。
僕は何だか急に切なくなってきた。
僕はどうしたのだろうか。こんなところまで来て何がしたいんだろうか。旅の初日からそんなモヤモヤ病にかかってしまった。
もう一度、「どうしたの?」と聞いてくる。
僕はハッと我に帰る。
そして、「えっと、この辺りにバックパッカーが泊まるような安宿はありますか?」と聞くとあっちのほうよと、シングリッシュで親切に教えてくれた。

あっちは、路地の入り組んだところだった。またしても見つからない。
もう、やだなーと思っているとタクシーが通りかかる。呼び止めて、安宿はどこかと聞くと隣の路地にあるよと教えられ、ようやくCheckers Inn Backpackers Hostelという宿に着く。
しかしその宿は、フロントまでバックパッカーたちで埋まるほどの混み具合だった。何とかして宿のスタッフを呼び出して交渉するも、これ以上は泊まられないとむげに断られてしまう。
泣きそうになった。
すがりつくような思いで「僕は、じゃあどうしたらいいですか? 教えて下さい」と聞くと、近くの宿を紹介された。「確かそっちにもドミトリーがあったから安いはず」と。
教えられたほうに行くと、すぐにHotel 81 Dicksonという安宿は見つかった。部屋も空いていた。一泊160シンガポールドルくらいだったと記憶する。

ジョホールバル 3日目のこと


●ジョホールバルにやってきた

「ジョホールバルって町は何にもない所です」
「……」
「えぇ、もちろん日本での知名度は高いですよ。でも、名前だけが一人歩きしているところがありますね」
「……」
「いえ、そんなことはないですよ。ただね、僕は思うんですよ。日本人でなかったらこの町に泊まることはなかっただろう、って。この町の名前に対する引力に対して敏感に反応してしまっただけなんだと思います」
「……」
「来てみての、感想ですか? ですから先ほども言ったように名前負けしているなぁという以外とくに何もありません」

橋で繋がれたシンガポールとマレーシアの国境を僕は歩いて渡る。シンガポールの出国審査もマレーシアの入国審査も至極簡素であっさりしたものだった。ちょっと隣町へ買い物へ、という感覚で地元の人は国と国を行き来しているのだ。
本で何度も読んだそうした事象も、実際に目の当たりにするとなかなかどうして感慨深いものがある。
あぁ、みんな国境なんて、買い物袋をぶら下げながらさくさくと歩いて渡るものなんだなぁと。

ジョホールバルは「ジョホールバルの歓喜」を喚起させるようなものは何一つなく、見所もない平凡な町であった。
「ジョホールバルになぜ泊まったのか?」というインタビューを受けたら冒頭のように答えるだろう。


●マレー鉄道のチケットを買う

翌日にマレー鉄道に乗るためのチケットを買う。
マレーシアではバスでの移動のほうが一般的のようだが、僕は電車に乗りたかった。
旅の出発前に見た『ダージリン急行』が影響しているのだろう。『ダージリン急行』では三男のジャックが電車の中で行きずりのセックスをするシーンがある。
お相手はインド現地の魅惑的な女性だ。心のどこかで僕もそんなシチュエーションを期待していたのかもしれない。

駅にあるチケット窓口で、マラッカに行きたいと言うと「それならバスがいいわよ」と言われた。
「バスじゃなくて、電車で行きたいんです」
「どうして? マラッカは電車が通っていないのよ。残念だけど、マラッカと言う駅は存在しないの」
「バスだと他の乗客と近いから無理なんです。どうにかして列車に乗れませんか?」

窓口の女性に無理だと言われれば言われるほど、電車の中での秘め事が頭をよぎる。
食べるなと言われれば食べたくなる、するなと言われればしたくなる。子供のような発想だ。旅は思考回路を幼少時のそれに戻してしまう作用がある。

「わかったわ。どうしても電車がいいのね」
彼女の「どうしても」というセリフがどうしても意味深に聞こえてしまう。あぁ…。
「そうしたら、このTampinという駅で降りなさい。ここがマラッカから一番の最寄り駅よ」
かくして、無事明日の電車の切符を手に入れることができた。

ジョホールバルで泊まったのは新山ホテルという一泊800円ほどの安宿。
その中でもベッドのせいでドアが全開できない最も狭い部屋だった。窓はなくエレベータが隣接しているため、ものすごい轟音がした。シャワーもトイレもない。
が、客も少ないためか、轟音に悩まされることなく眠りにつくことができた、妄想は程々にして。

シンガポールを脱出せよ

●足が太いのにホットパンツを着る

「国境はどこですか。マレーシアへ行きたいんだけど」

国境近くのマクドナルドのレジで、僕が尋ねるとマレー系の彼女は「私に任せて」と言わんばかりにウィンクをした。
マレー人にウィンク…。少し違和感を感じた、というか彼女の雰囲気にはウィンクはミスマッチだった。足が太いのにホットパンツを着る女の子みたいだ。

「そっちに行けば、国境よ」
万遍の笑みを浮かべて、彼女は答えてくれた。でもぜんぜん僕の好みのタイプじゃなかったので、その笑みは東南アジア特有の猛烈に強い冷房にのって消えていった。
「OK、サンキュー」
とだけ答えて、僕は踵を返した。次からは可愛い子に尋ねようかな…なんて考えていると、それを察したのか、さきほどの女の子が僕を呼び止めた。
(いや別に君が可愛くないから、何も買わずに行ってしまおうってわけじゃないんだよ、っていうか、それって英語だとなんて言うんだ?)とテンパりながら振り返る。

「紙かなんか持ってない?」
妄想に反して彼女は微笑んだままだった。ノートならカバンにあったけど、面倒だった。何度も言うようで申し訳ないが、彼女が可愛かったのなら話は別だが、あいにく興味が沸くような子ではかった。
「持ってないんだ」
素っ気なく答える。
「そう…」
彼女は少し困った顔をして考え込む。
すると、何かを思いついたように、レジでピピッとした。レジからレシートが少しだけ出てきた。レシートのロールの詰まり防止ボタンか何かを押したのだろう。彼女はそのレシートの切れ端で、僕のために国境までの地図を書いてくれた。

●恋の瞬間は、些細なことで

えっ? 僕はその「機転」に驚いた。

日本でレジの店員さんが外国人に道を尋ねられ、テンパる様子は容易に想像できる。とは言え、基本的には人がいい日本人なので、少しでも英語の話せる人がいれば戸惑いながらも道を教えてあげるだろう。
だが、「とっさにレジからレシートの切れ端を取り出して、そこに地図を書き込む」なんて離れ業ができる人はどれだけいるだろうか?

僕は彼女に感動した、と同時に彼女のことが一気に好きになってしまった。

「君、マクドナルドでレジの店員をやめて、僕と日本でビジネスをしよう。もちろん君は僕のハニーになるんだよ。そうだな…子供は3人で、世田谷にあるインターナショナルスクールで、育てようじゃないか。日本とシンガポールとマレーシアの3つの名前をつけようね。日本語とマレー語とシングリッシュができる、国際的な子供…ステキだと思わないかい?」
と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。旅に出て2日目で何を言おうとしてんだ、このバカちんが。ということで、買う予定のなかったマックシェイクだけで何とか我慢して、僕は国境へととぼとぼと歩いた──。




●シンガポールを脱出せよ


シンガポールの滞在はほぼ一日だけだった。
なぜかと聞かれても答えに窮する。シンガポール(華僑)の都会っ娘の生足がとても綺麗で(性欲的に)我慢できなかったからというわけでもないし、一泊1000円以上という宿代に怖れおののいたわけでもない(それまでに旅をしたことがあるアジアは中国だけだったが、宿代は一泊数百円だった)し、シングリッシュがよく聞き取れず、自分の語学力のなさに落胆したからというわけでもないし、アイスクリーム事件(※他記事参照)でビビったわけでもない。いや、それらはすべて事実だ、答えなんて自ずからわかっている。

でも一番の理由は、旅を味わいたかったからだ。そのためにはシンガポールは都会すぎたし、洗練され過ぎていた。
とっととマレー鉄道に乗って、旅情にふけりたかったというのが本音だ。

旅の2日目。シンガポールで朝9時に起きると、まだ同じドミトリーの白人バックパッカーたちは夜遊びにお疲れなのか熟睡していた。

彼らを後目に僕はそそくさと宿を出た。
国境近くに行けば何とかなるだろうと思い、空港でもらった地図を頼りに、シンガポールのMRTに乗って、もっとも国境に近そうな駅へと向かった。

駅を降りて僕はコンパスを取り出す。コンパスは裏切らない。「コンパスが指す北のほうへ向かえば、マレーシアに行ける」そう信じて北へと足を運んだ。
しだいに、雑踏が見えてきた。国境周辺にいることは間違いなかったが、イミグレーションの正確な位置がわからなかったので、僕は近くにあるマクドナルドに入ることにした。そこでレジにいる女の子に国境の場所を聞くと親切にも地図を書いて説明してくれた。
僕はその地図を頼りに何とかイミグレーションオフィスに着いたのだった。

2011年9月12日月曜日

ルアンパバーン行きのスロウボート 前半


●日本人のよりは気持ちよい、か!?

バンコクで出会ったオージーは、おせっかいな奴だった。
やれ「タイ北部、ミャンマーとの国境付近の山間部は本当に美しいから、見るべきだネ」だの、「東南アジアは時計回りでいくべきだネ」だの、「メコン川のスローボートはやっぱり外せないネ」と能弁を垂れてくる。うっさいつーの。
しまいには、「僕の泊まってる宿にくれば? 安くていいトコだヨ」と誘ってくる。ぼ、ぼくとヤリたいのか!?
僕は、白人のでっかくてふにゃふにゃのちんこを想像した。ジャパニ(日本人)の小さくて固いそれのほうが痛いような気がする。よし、君の宿とやらを見せてもらおう。僕は彼の後をついていくことにした。
なんだか、彼の歩き方がぎこちない。も、もしや、もう勃起しているのか!? なんだか照れるじゃないか! 
宿に到着するや否や、オージーは「ここで待ってろ」という。ははん、部屋を綺麗にしてくるんだな。
「OK! とりあえず、チェックインしちゃうよ」
一泊80バーツの割に汚くないその宿に泊まることにした。フロントの女の子がとても可愛いのだ。宿で飼っているらしい猫が、客のバックパックや椅子に座ると大きな声で叱るのだが、その姿がまさに天真爛漫といった様子で微笑ましい。ベッドシーツの洗濯や接客などを1人でこなす彼女を見ていると、バンコクという大都市の全てが素晴らしいように感じてくる。単純なものだ。
オージーは部屋から70ℓのどでかいバックパックと白黒のタイ地図を持ってきて、事細かにタイの説明をしてくれた。
そして、「残念だけど、僕はもう母国に帰らないと行けないんだ。君との夜はお預けだね」と意味深げなセリフを言い残し、彼は宿を出ていってしまった。

●大沢くんもびっくりの新事実発覚!!

というわけで、僕はその後、タイ北部の山間部を訪れ、東南アジアを時計回りに周遊し、メコン川のスローボートに乗った。
つまり、彼の言いなりとなったのだ。あるいは、僕は彼と過ごせなかった甘美な夜の時間を、埋め合わせたかったのかもしれないな…なんてことは一切思っていない。単純にガイドブックを持っていなかったので、彼の助言に従うほかなかったのである。

このスローボートというのは、タイとラオスの国境の街フエイサイという町から世界遺産の街ルアンパバーンへいくというものだ。東南アジア周遊の定番らしく、スローボートは80人ほどの白人バックパッカーで溢れていた。日本人は8人くらいだった。
このボートはスローというだけあって、ほんとうにゆっくり進む。僕が日本から持ってきていた世界地図(東京と横浜が隣の村のように見える代物)で見ても、あぁ、けっこう離れているんだね、とわかる。

「日本人旅行者は群れる」という話をよく聞くが、スローボートの中では、色んな国が群れていた。船首のほうでは、誰が持ち込んだのか、ラジカセで爆音を流す大英帝国の若者どもがはしゃいでいた。ドイツの若者は、船の中央を陣取り、みな神妙な面持ちで、ドフトエフスキーだとかハルキムラカミを読んでいた。やれやれ。
僕は荷物置き場にスペースがあることを見つけ、ひとりで得意げに寝転がっていた。気分は都会から田舎へ引越し、他の生徒を達観する、『天然コケッコー』の大沢くんだ! さくっと寝て起きれば着いているだろうという魂胆。窮屈な椅子に座る奴らを小馬鹿にしたような態度で寝そべっていた。が、そううまくもいかなかった。

 まず38歳のマサさん(日本人)というひとに見つかってしまう。彼はおせっかいにも、他の日本人を3名ほども引き連れてきた。マサさんは、おもむろにマリファナを吸い始める。彼はおせっかいにも、他の日本人3名にも配り、みんなで“お楽しみの時間”が始まってしまった。これではおちおち眠ってなんかいられない…。
「ユウジロ君もどうだい?」お声がかかった。ほら見たことか! 僕は事の次第を説明した。
「マサさん、いやね、実は僕は退屈だから寝ることにしたんです。軽く寝て起きたら着くでしょうから…。気分は大沢君なんですよ。見て下さい、あの大英帝国のバカどもを。数時間後にルアンパバーンについてから、いくらでもばか騒ぎできるのに、こんな船でも楽しもうと躍起になってて…」というと、みんないっせいに僕を見て笑った。
え? え? もうみんなキマってるの? そんなに上物なんすか?いや、そうではないらしい。一通り笑い終えると、マサさんは言った。
「ユウジロ君、この船今日は着かないよ」
「??」話がつかめない。
「いやこの船スローボートだから、ルアンパバーンに着くのは明日のお昼過ぎだよ。今日は途中で停泊して、そこに泊まるんだ」
そうだったのか!? 「オージーはひとこともそんなこと言ってなかったっすよ! マジっすか、やだなー」
「いや、オージーのことはよくわかんないけど、そういうことだから、はい、どうぞ」
笑顔で手渡されたジョイントからは甘い香りが漂ってきた…。
気づくと、フランス人カップルも輪の中にいる。彼らも自前のものを僕らにくれる。フ、ラ。ン、ス、人、さ。す、が、「博」「愛」「主」「義」! !  !?

●川賊の襲来

次に気づいたときには、宿泊するらしい小さな村についていた。
するとたくさんの人間が船に乗り込んできた。僕は強盗の襲来かと思い焦った! 急いで自分のカバンを背負い、強盗の襲来に備える。
(お金は4ヵ所に分散してあるから、まあリスクは少ない。確か、ポケットの財布にしまったお金が一番少額だったはずだ…)
などと、強盗への支払いのシミュレーションをする。
(さすがにそれだけな訳ないと察するだろうから、右足の靴の裏に隠した300ドルは、見せ玉として渡してしまおう…)
強盗たちは、置いてあったバックパックを我先にと次々と背負っていく。こいつら、荷物狙いか…。と思いきや、どうやら様子がオカシイ。カバンを背負ったまま船の外で船客を待ち伏せしているのだ。しかもよく見ると彼らはみな小さな子供たちだった。
「プリーズ、トゥーダラー!」「プリーズ!」「オンリートゥー!」
大合唱が始まる。どうやら子供たちの小遣い稼ぎらしい。
荷物を奪われた白人や日本人バックパッカーたちは、みな一様に困り果てていた…。

2011年9月8日木曜日

◇初めての海外一人旅 〜ヨーロッパ サッカー編その2後半〜



(前回のあらすじ)
アジア人など一人もいないスペインはバルセロナのクラブに到着した僕。
一緒にきたジャンキーカナダ人たちと離ればなれになり、ひとりぼっちになってしまった。はたして無事に憧れのリーガエスパニョーラを見ることができるのか!?

●そこは、カオスだった

クラブには一度だけ行ったことがある。あのときは渋谷のClub Asiaというところへ大学の同級生だった中国人留学生の友人(カン君)と一緒だった。当時僕はようやく19歳になったばかりで、20歳未満が入場できないことを知らなかった。
エントランスの強面のお兄さんにIDを出せと言われ、僕は何も考えずに原付の免許証を出す。「オレ原付の免許あるんだぜ」と言わんばかりに堂々と差し出したのだけれど、免許を突き返され、帰れと言われてしまう。呆然と立ち尽くし、帰ることも入れてくれと懇願することもできなかった。その様子を見かねた、カン君が咄嗟に中国語で畳み掛けた。
気付くと「ゆじろ、ゆじろ、OKだよ。いこう」と声を掛けられた。何とカン君が交渉に成功していたのである。すげー中国人! 僕は心の中で、(ぜったい中国人だけは敵にまわさないようにしよう)と誓った。脱線しすぎてしまった。スペイン坂があるからといって、渋谷の話ばかりしても仕方ない。
スペインのクラブの前で取り残された僕は、先のカン君のような手助けもなくひとり困り果てていた。すると、絶世の美女が現れて、「うふふ、きみオリエンタルで可愛いわね、何人?」と聞いてきた。身長は僕と同じくらい。その他大勢の白人美女と同じように、腕の毛がバッチリ生えていたけど、バディのほうもバッチリだった。「い、いや、あのカナダ人と来たんですけど、エントランスで僕だけ門前払いされて…」というと、そのハリウッド映画に出てきそうな美女が僕の手を取って…なんていう展開はなく、おどおどしていたら、そこらへんのお兄さんが、「チケットならあっちで買えるよ」と教えてくれた。単にカナダ人たちはチケットの予約を入れていただけであり、僕はチケットを買えばいいだけの話だった。

「それなら一言そういってくれればいいのに、あのジャンキーたちめ」と、入場したら文句の一つでもいってやろうと息巻いて入場した。しかしそこはカオスだった…。

●汗、愛、そして怒り

もの凄い殺気だ。ひとひとひと。あーこりゃ、見つからないよ。
僕の怒りは徐々におさまっていく。汗まみれの人の合間を縫うようにして、歩いていると声を掛けられる。「おお、アジア人、どっから来た?」「日本だよ」「ふーん、楽しんでね」それだけかい! その男の子は、話し終えるとすぐに女のケツに手を回して踊りに戻った。誰も僕のことなんか気にかけていないんだ、どうせいつだって僕はひとりぼっちなんだ…なんてメンヘラみたいなことは一切思わず、いやーすげーな、オレもケツに手を回してーなーと思っていたら、誰かが僕の腰に手を回してきた! いよいよ、オリエンタルにもチャンスがやってきたか、と振り返ると顔を真っ赤にしたカナダ人がいた。おお、いたのかと、笑顔になるも、すぐさま思い直す。こいつらのせいでひとりぼっちになったのだから文句をいわねば、と。
が、なぜか、彼のほうが先に怒ってきた。「おめーどこいってたんだ、ふざけんな」と…。えーーーー!? オレ?? オレが悪いの?? 彼の怒りはおさまらない。が、よく観察すると様子がおかしい。酩酊状態の度を超えて、猛烈にフラフラなのだ。おいおいおいおい、それで帰れるのかよ、と優しい声をかけてあげると、急に機嫌が良くなった。そんな風にしてなだめすかしつつ、クラブというものをようやく楽しむことができた。

●甦るリーガエスパニョーラ!!

酔いもそこそこに、クラブを楽しんでいたが、ふいに思い出した。
明日はリーガエスパニョーラだ!
思い出すと止まらない。僕は帰る。いや、帰らせてくれ。ただ実は帰り道がわからないんだ、教えてくれないか。
カナダ人にせっつくも酔っぱらった彼らは応じようとしない。ならば自力で帰るのみ、とクラブを飛び出す。外は明るくなっていた。前夜の記憶にある街と明るい街が全く結びつかない。これはマズいことになった。もう寝たいのだ、僕はリーガエスパニョーラを万全な状態で見たいのだ!
「ヘルーーープ!」と心の中で叫ぶ。もう一度叫ぶ。「ヘルーーープ!!」

「へい。急に飛び出してどうしたんだい。大丈夫か」
そこにはカナダ人のうちの比較的酔っぱらっていなかった一人が立っていた。禿げかかった金色の髪の毛が、朝日と重なり、煌々と輝いていた。おーーまいゴッド!
まだまだフラフラで、なんで帰らなきゃいけないんだと、暴れる彼の友人とともに、タクシーに乗り込み、無事宿へ戻ることができた。

●2メートルを越すイラン人とロナウジーニョとエトオ

翌日のリーガエスパニョーラ「バルセロナvsマジョルカ」は、夕方からだった。日が暮れる頃、僕はカンプノウへ向かう。前日のクラブでの出来事のおかげで、いきなりエントランスへ行くのではなく、まずはチケット売り場を探すという順序を踏むことができた。

チケット売り場に並ぼうとすると、同時に列へやってきた中東系の人と譲り合う形になった。咄嗟に彼は僕を先に入れてくれようとした。
いやいや悪いですよ、いえいえ、いいんです、イランは結構日本のお世話になっていますから、いやでも、僕がお世話したわけでもないのに…、でも、ほら、リーガエスパニョーラは初めてだし、たまたま仕事でバルセロナに来ただけだから、で、でも、ジョホールバルではこちらこそお世話になったし…じゃ、せっかくだから一緒に見よう! と同じカテゴリのチケットを買った。W杯も一緒に行けたら良かったのにね、セリエAみたいに仲良く勝ち点を分け合ってさ。

そんな風にして、2メートル15センチあるというイラン人の彼と観戦することにした。カンプノウはやたらと急斜面でめちゃめちゃ恐かった。2メートルを越す彼の視線を考え余計に恐ろしくなり、前に座る頬を真っ赤にしたおじさんが身を乗り出してプレーに茶々をいれているのを見て(そんなに身を乗り出したら落ちちゃうよ!)さらに恐ろしくなった。ハーフタイムには、レアルマドリードが引き分けていると掲示板に出る。さらにその失点シーンも流れる。会場は大盛り上がりだ。ざまーみろと。
いやー、すごいのひと言につきる。
そんな中、当時マジョルカにいた大久保嘉人が後半途中から出てきた。おーーー、そう言えばマジョルカにいたのかと、突然の登場に感動したので、めちゃめちゃ大声で応援してあげた。「いけー!!(もちろん日本語で)」僕の応援が聞こえたのか(グランドからめちゃめちゃ遠い席だったけど)、大久保さんは見事な活躍を見せる、きちんとイエローカードをもらうことで、バルサファンを喜ばせていた。さすが大久保さんだ!
試合は、エトオとかロナウジーニョとか、全員めちゃんこ上手すぎて、バルセロナの圧勝だった。いまでもカンプノウで感じたあの熱気は忘れられない。絶対にもう一度みたいと思っている。
イラン人? 彼のメールアドレスは、なくしてしまった。もし日本語を勉強して、日本にやってきて、ことの成りゆきで書店で働くことになって、この文章を読んでいたら、弊社まで連絡ください。ロナウジーニョがゴールを決めた後、仲間たちにダイブしている写真がありますので。おわり。

2011年5月20日金曜日

◇初めての海外一人旅 〜ヨーロッパ サッカー編その2前半〜

●カンプノウでロナウジーニョを見なくとも

ハンブルグで「高原くん」じゃなかった…「高原さん」からサインをもらうことができた日からおよそ10日後。僕はスペインのバルセロナにいた。

バルセロナでカンプノウに行かなかったら、どうしてわざわざスペインくんだりまで来たのかわからない。
なんてことはなく、バルセロナはそれはもう魅力的な街で、ロナウジーニョを見なくてもじゅうぶん素晴らしかった。
たとえばガウディ。バルセロナに足を踏み入れるまで、彼のことなんて全く知らなかった。そんな僕は帰国後、サグラダ・ファミリアについて、カサ・ミラについて、グエル公園について、色んな人に熱く語った。
「サグラダファミリアってね、グエル公園の丘のてっぺんから見えるんだけど、その風景がハンパないわけ。特に夕暮れには恐れ入ったよ。さすがガウディ、夕暮れまで考えて建築してたんだ、僕にはそれが手に取るようにわかったのさ」
グエル公園では観光客がごった返していて、初めての一人旅(当時19歳の大学生)の終盤だった僕はすごくさびしかった。ほんとうは日が暮れるまでいようと、15時頃に公園に行くも、1時間で出てきてしまった。だから、夕暮れなんて見ていない。
メシも美味かった。僕はパエリアについても、帰国後、能弁に語った。
「あれは日本で食べるパエリアとはひと味もふた味も違うね。魚介の旨味がギュッとご飯に染み込んでてさ! サフランの香りも日本のものと全然違うよ」
僕がスペインで食べたパエリアは、ご飯がベチャベチャで、日本のスペイン料理屋いやイタ飯屋のほうがよっぽど美味かった。
他にも、CAVAとよばれる発泡性のワインも市場で安く手に入った。値段の割に美味いと評判のこのワインも自慢したけど、たいして美味しくなかった、というかワイン自体ほとんど飲んだことがなかったからよくわからない。
どうでも良い事だが、ふらりと寄ったジョアン・ミロ博物館に感動して以来、ミロという作家のファンである。

●僕をほうっておいてくれ!

というわけで、何としても翌日のスペインリーグだけは見たかった。バルサの試合を見なければ、すべてが“ウソ”になってしまう気がしたから。余計なことに巻き込まれないために、僕は日が暮れるとすぐに宿に戻った。宿は16人部屋のドミトリー。明日に備え、早々に寝ようとする。しかし寝付けぬまま30分ほどするとマリファナを吸いまくるイギリス人4人組に両サイドをマークされた。彼らはどこからかサソリを手に入れ、「こいつを、どうやってイギリスに持っていくかを皆で相談しているんだ」と言ってきたので、苦笑いしといてやった。当時僕はタバコですら一度も吸ったことがなかった。ピュアなのだ。ビビりまくって、MDウォークマンの音量を最大にした。すると逆効果だったらしく、どんな音楽を聞いてんだよと絡まれる。あげくにオレのも聞けよと、大音量のHip Hopを押し付けられた。や、やめてくれー! 僕のMDには、さわやかな曲しかないんだぜ!
さらに向かい側のベッドでは、北欧系と見られる背がとんでもなく大きくて横幅もでっかい金髪のねーちゃんたちが、平気な顔をしてお着替えをする。おいおい、やめてくれ、レーパーバーンでの一夜を思い出してしまうではないか!
僕は居たたまれなくなって部屋を抜け出した。外に出て、新鮮な空気でも吸おうと階段を下る。すると声を掛けられた。

「ヘイ、ジャップ!」

足を止めると、ドレッドヘアでめちゃめちゃハイテンションのカナダ人がいた。目が泳いでいた。たぶんアガるやつでもキメているのだろう。(明日は、スペインリーグだぞ、逃げろ!)と心の中で叫ぶも、ビビった僕の足は動かなかった。「これくうか? めちゃめちゃ甘いぜ、グフフ」と言われ、これ(ただのリンゴ)をくったらヤバいと思い、断る。すると彼はじゃっかん不機嫌になった。「なんだノリの悪い奴め、じゃあこのあとオレらはクラブに繰り出すけど、おめーもいくか? いくよな?」これ以上不機嫌になられて、暴力でも振るわれたらたまったものじゃない。「もちろんさ」僕は咄嗟に答えてしまった。

●門前払いはもう慣れっこ。だけど…

約束の時間に彼らは現れなかった。これで明日のスペインリーグに照準をあわせられると、ホッとしたのも束の間、ふらふらのカナダ人3人組がやってきて、ほいじゃあいこうぜ、と地下鉄に乗り込む。地下鉄の案内表示を見ると最終列車とある。うわー最悪だ。カンプノウに行かなきゃ、バルセロナにいったと、誰にも言えなくなっちゃうのに…。
嫌々ながら彼らについていくと、巨大なクラブが目の前に現れた。人も500人はいるだろうか。ながーい行列に並び、30分ほどでようやくエントランスに到着。すると、同行していたカナダ人たちはみな通してもらうも、僕だけはSPに門前払いされてしまった。一人取り残さる。まわりを見渡すも、日本人はおろかアジア系の顔の人間は一人もいなかった。これは本格的にヤバいのではないか。その頃には、翌日のスペインリーグのことは頭の中から消えていた。(後半へつづく)

◇初めての海外一人旅 〜ヨーロッパ サッカー編〜

2005年2月。
シモンが誘ってくれた『甘い誘惑編』の一夜が明けた。
初めての一人旅の夜だというのに、ぐっすりと眠ることができた。シモンのおかげだろうか。今後、ポーランド人が粋がって、日本人の無垢な若者を舎弟にすることをおそれた僕は、「意外とビビってたんだろ?」と言ってやろうと思ったが、朝食の場にシモンの姿はなかった。まあ、今回は大目に見てあげよう。

この日、僕には明確な目標があった。それはドイツで活躍するサッカー選手の高原直泰のサインをゲットするというもの。「行けば会えると思うだって? 甘いんじゃない?」「もし会えたとして、サインしてもらえるなんて甘いんじゃない?」東京を出発する前、友人たちは、一様に僕の試算の甘さを指摘した。けど、僕には勝算があった。
白人美人との「甘美な一夜」を乗り切ることが出来たのだから、僕には不可能なんてない、なんてことは微塵も思ってない。
実は、高原は僕が通った小学校の隣の山田小学校だったのである。市の選抜チーム(三島市)で言えば、先輩後輩にあたり、当時の監督やコーチといった共通の話題もたくさん持っている。それを種とし、思い出話に花を咲かせ、サインをゲットするのだ。宿でハンブルガーSVの練習場所を聞き、列車に乗って向かうことにした。

道中、『キャプテン翼』の最終話を思い出していた。中学を卒業すると同時に、ブラジルへ渡る決心をした翼くんは、最後に奥寺が率いる日本選抜の練習場に、飛び込み勝負を挑むシーン。翼くんは実力を認められ、なんと日本選抜のグレミオFCとの試合にデビューしてしまうのだ。
ハンブルガーSVの練習場に着くと、フェンスは低く誰でも飛び込める状態だった。翼くんと同じようにグラウンドへ飛び込んで勝負を挑むというシュミレーションを頭の中でくり返した。

2月の北ヨーロッパはとんでもなく寒いうえに雨がパラパラと降っていた。なかなか出てこない選手たちにいら立ちをおぼえはじめた。と同時に、ある話を思い出した。「冬のヨーロッパの練習は寒さを理由に中止になることがある」というもの。急に不安になる。
さらに30分待って、とうとう僕は痺れを切らしてクラブハウスらしい建物へ「どうなってんだ、今日は練習やらないのか!?」と怒鳴り込んだ、いや怒鳴り込んではいない。ビビりながら、小さい声で「今日は練習って…」とだけいうと、困惑したスタッフの方は、たいへん親切に「いや、今日はAOLスタジアムでの練習日だよ、そこへ行けば見られるはずさ」と、教えてくれた。そこの練習場で待った2時間は、僕の人生にとって、決して無駄ではないと信じたい。

ハンブルガーSVのホームグラウンドAOLスタジアムは荘厳な面持ちで、僕を待ってくれていた。その姿を目にした時、「高原に会えなくても、いいや」と思った。いや、本音を言えば、この雰囲気だと会えそうにないなと思ったのだ。
先ほどの失敗をくり返さぬよう、スタジアムに着くとすぐにスタッフへ尋ねた。「今日は、あれですよね、確か練習日だって聞きましたけど」
「そうだよ、あっちから入れるからどうぞ」
中にスコスコ入っていくと、練習見学者たちが15人ほどいた。その中に、日本人のおばさんがいて、僕の姿に気づくと話しかけてきた。
「あら、新顔ね。高原くんを見に来たのね」
「そうです、サインをもらいたいなーと思ってきました」
「そう、頑張ってね。ただ今日はスタジアム練習だから厳しいかもしれないわ」
落胆する僕を励ますことなしに、彼女は見学に戻っていった。
落胆するも、僕は心を持ち直す。
(いやいや、そうは言っても僕には高原「くん」との共通の話題を持っているのだよ)と、一人ほくそ笑む。ざまあみろ、おばさん!!
きっとそのおばさんは、現地ジャーナリストかライターでもやっているのだろう。素人に毛が生えたような人でも、海外だと現地にいさえすれば、それなりにルポルタージュとか記事とか書けてしまうと聞いたことがある。取材や選手との接触が容易なのだとか。
おばさん、その程度ならオレのほうが熱い会話が出来るぜ。

しかし困ったことに、続々と集まる選手たちにも拘らず、高原は姿を見せない。
とりあえず、ここはトイレにいって落ち着こうと、いったんスタジアムの外に出ると1台の車が駐車場に滑り込んできた。目を凝らすと、なんと高原だ!
一瞬で緊張感が高まる。頭の中で高原「くん」と共通の話題のおさらいをしながら、僕は駆け寄る。高原は遅刻らしく、急ぎ足でスタジアムへと向かっていく。「や、やまだ小学校、い、いやちがう、その…」なかなか声を掛けられないまま、ドンドン高原の姿が小さくなる。プライドを捨てるしかない。
「高原“さん”! サ、サイン下さい!」
高原は振り向くと、「いいよー日本から来たの?」とサインをくれた。
「ちょっとね、寝坊していそいでいるから、じゃあね」と踵を返したので、
「や、山田、じゃなくって…、あの、写真とらせてください!」
「OK」とかっこ良くポーズしてくれた。

こうして、僕はヨーロッパのサッカーとの初コンタクトに成功したのである。次号は、カンプノウでのバルセロナの試合をお伝えしたい。

干渉に関する考察

そう、あれはダハブにいた時のことだった。その少女たちは僕に蔑むような目線を送ってきた。彼女たちは一様に何かを言ってきたが、アラビア語なのでまったく理解できなかった。
僕は戸惑いを感じた。彼女たちの立場からだと、僕の行動に共感を覚えてもいいはずなのだ。にもかかわらず、馬鹿にしたかのような笑いは途絶えることがなかった。

◆婚活女子はダハブに行くとよいと思う
ダハブの街はエジプトにある。首都カイロからおよそ8時間で、モーセの十戒で有名なシナイ山のあるシナイ半島の東南部に位置する。バックパッカーにはとても有名な場所である。その理由は明白で、「一泊200円の安い宿」、「1000円払えばおつりが返ってくる、ロケーション最高のうまいレストラン(ビール付)」、「アカバ湾(紅海)という世界でも有数のダイビングスポットに面していて、格安で潜ることができる」、そして、ここには「恋」がある。
(※一般的な旅のルートとして、エジプトから北上し、ヨルダン、シリア、イスラエル、レバノンを通り、トルコに抜けるというものがある。一人旅の女の子は、「あこがれの中東」と嬉々としてカイロに入国するも、すぐさまこの国の男たちの執拗な誘いにうんざりするようだ。彼女たちはエジプト観光のハイライトである内陸部では気丈に振る舞うも、エジプト最後の地ダハブまでくるといささか緊張の糸が切れるようである。ダハブの居心地の良い空気感に心をほだされると、「あぁ、この先は男性と旅したほうがラクだなー」と無意識のうちにパートナーを探し始める。さらに、そんな噂を聞きつけた男もわんさか寄ってくる。ダハブが恋の街と呼ばれる理由がこれで、婚活だとか恋活だとか言っている人は、ぜひダハブに行くと良い。下手なセラピーよりよほど恋に効くはずだ)

そんな旅情あふれるダハブだが、この街に到着してすぐにあることに気づいた。泊まる宿から30mほどのところにある建物がボロボロに崩れている。2年前に20人以上が犠牲となった爆破テロがあったらしいのだ。

◆インドからエジプトへ飛んだ100の理由
ユーラシア大陸を横断中の僕がインドから直接エジプトに飛んだ理由はだいたい100個くらいあって、1つ目は、僕がインドのデリーにいる時に、テロの予告があったことにある。よりにもよって、僕が泊まるメインバザールという地域が標的にされたらしく、身体検査をしないと宿に戻れないような状況だった。自分の中で、インドの次に訪れる予定だったパキスタンへの恐れが少しだけあって、それがこの出来事により一気に膨らんだ。2つ目は、イラン政府にある。パキスタンを抜けた後は、イランを通り、中央アジアへ行くつもりだった。しかし、いざパキスタンへと足を踏み出そうとした数週間前に、イランが軍事演習と称しミサイルを発射。イスラエルへの威嚇のためだと報道され、一気に緊張感が高まったように感じた。
パスポートに貼られたパキスタンのビザをぼんやりと眺め、泣く泣く心の中でそれを破いた。3つ目から100個目までの理由は語るほどのことではない。要は「めんどくさかった」のと、「ビビった」ので98%を占める。

エジプトへ来ると平和で、それはもう至極安心したものだ。
世間で言われているような、中東情報はあてにならないのかもしれないなと感じ始めていたころ、先のダハブの爆破テロの現場に出合ったのである。もう心の動きは二転三転どころか、もみくちゃである。何が正しい情報で、何が正しくないのか全くわからず、混乱状態である。これは良くない兆候で、人間は混乱に慣れてしまうと思考が麻痺してしまうらしい。あの香田証生さんも、僕が訪れる1カ月前のイスラエルでゴム銃にあたり失明した名もなき若者も、みんな色んな出来事が一転二転三転四転し、混乱に慣れてしまったのだろう。1つだけ正しいのは、平和にも危険にも頭に「絶対」がつくことはないことだ。
さて、思考停止の状態で、僕はダハブの天国のような幸せな日々を送る。朝起きて、シュノーケリングをし、昼は海を眺めながらアクセサリーを作り、ときにダイビングのライセンスを取得し、夜はうまい飯とビールを飲み、夜中には麻雀に興じた。(ダハブにはなぜか麻雀があった)
平和な日々は続くかのように思えた。いや、実際続いていたし、僕がエジプトにいる間には何も問題は起こらなかった。でも、僕の心の平和は徐々に崩れていた。この平和は真の平和ではないと。

◆僕はエジプトの少女に干渉すべきか
先にも言ったが、ダハブには雰囲気の良いレストランが海沿いに並んでいて、僕は頻繁に何時間もそこで寛いだ。クッションに寄りかかり、たまに気が向けば、目の前に広がる珊瑚礁へ飛び込む。
そんなことをしていると、いつも8歳前後の女の子たちが10人ほどで現れた。アクセサリーを売りにくるのだ。レストランにいると、昼だろうと夜だろうと必ず現れる彼女たち。安易かも知れないが、学校にいっているのだろうかと心配してしまう。しかし、片言の英語を身につけ、立派に物売りとして頑張っている彼女たちの姿を見ていると、あるいは学校の教育は必要ないのかもしれないと感じる。
でも、平和の綻びは教育から生まれるとよく言われることで、どちらが正しいのか断定できない。ここでも僕は困惑してしまう。
よし、ここはひとつ、僕もアクセサリーを売ってみようと決意。彼女たちの目線に立てば何かわかるかもしれない。翌日、旅の間に作ってきた30個ほどのアクセサリーを携えて、雰囲気のよいレストランのすぐ横で露店売りをさせてもらうことにした。インドで買った妖しげな布を敷き、その上にアクセサリーを並べていく。物珍しそうに物色する幾人かの西洋人の相手をしながら、1時間ほどがたった。するとアクセサリー売りの女の子たちが、僕を見つけ駆け寄ってくる。
一様にみな蔑むような目線を送ってきて、僕のアクセサリーを手に取っては馬鹿にしてくる。冷笑が絶えない。あー嫌だな、やっぱり教育は必要なんじゃないかなと思っていると、一人の女の子が優しい声で僕に、
「これはいくらですか?」
と聞いてきた。あれ、と思い彼女と片言の英語で話す。「1ポンドだよ」と言うと、「?」という顔をしてくる。1ポンドは、彼女たちのものと同じ値段だ。彼女は「1ポンドも持っていないから買えない」と言う。
それならばと、「じゃあ、こうしよう。君の持っているそのアクセサリーと僕のアクセサリーを交換する、それでどうかな?」と提案すると、嬉しそうな顔でOKサインが出た。彼女は、僕のアクセサリーを受け取ると嬉しそうに走り去った。
彼女の後について、他の子たちもみな行ってしまった。僕は何となく手持ち無沙汰になってしまい、店仕舞いした。教育がどうだとかテロがどうだとか言う前に、いま目の前に笑顔を生み出すことが、大切なのではないかと悟った。
…かのように思えたが、その夜いつもと同じように、レストランでディナーを食べていると、アクセサリー売りの少女たちがやってきた。隣の西洋人が売り込みにあっているので、ぼんやり眺めていると、先ほどの少女が僕の売ったアクセサリーを二倍の値段で売っていた。商魂たくましい限りである。
ようやくわかった。何事もある程度はほうっておいても、それなりに上手くやるものだ。だから下手な口出しは余計な混乱を生み出すだけだと思う。中東の政治情勢も同じように、よそ者は干渉すべきではないのかもしれない。たまには、まじめなことを書いてみた。

ノロノロ運転、オロオロ地獄

●ノロノロ運転、オロオロ地獄

バスはゆっくりゆっくりゆっくり進んだ。
タイ北部の街メーサイと国境を挟むビルマ(ミャンマー)側の街タチレクから、目的地であるチャイントンまでの距離はおよそ150キロの道のり。
山間の未舗装の道で、使い古されたバスが唸りをあげて走る。その仰々しい音に反して時速は20キロといったところ。それでもスピードを出して、崖に転落されるよりずっとマシだと、自分を納得させバスの中でジッとこらえた。
続くのはひたすらカーブで、見えるのは非風光明媚な荒涼としたホコリ臭い山々のみ。5時間ほど経つと、ビルマ人かタイ人と思しき乗客たちが一斉にオロオロと吐き出した。オロオロする子供の背中をさすっていた親もつられてオロオロ。オロオロしながらも、子の背をさするのはさすが母は強し。いや、オロオロしているから強くはないなー、もうわけわからん。床を優雅に流れる嘔吐物のせいで前の席のお坊さんもオロオロ。どうやら日頃の苦行ではオロオロに勝てなかったようだ。
そもそも問題は出発して30分ほどのときあった、と僕は見ている。そこは未だ舗装された道だった。バス内には何となく小学生の遠足のような雰囲気があって、彼らは持ち込んだお菓子やらスープやらをばくばくとがっつり食っていたのである、そりゃ吐きますよ。
●賊の襲撃

「ぱーーーん」という銃声音の後、バスはとまってしまった。“ゲロまみれの30分”からおよそ1時間が経ち、事態がようやく収束に向かっていたときのことだった。ここは民主主義国家のビルマではなく、実際にはミャンマーという軍事国家だ。政情が不安定であるという予備知識を持つ僕は、完全に賊の襲撃だと思い、身を屈め、日本人だとバレないように顔を隠していると、乗客たちはみな順番に降りていく。ここで降ろされ、身ぐるみはがされるのかと僕もバスを降りる。と、必死にタイヤのパンクを直す汗まみれの運転手の姿があった。そう、ただのパンクだったのである。30分ほどでタイヤの応急措置は終わったけど、スペアタイヤが減ってしまったバスはさらなるノロノロ運転になった。およそ10時間ほどでようやくチャイントンに到着した。
●本題はここから

今回のはなしの本筋はバスでの顛末ではない。(覚えている人は一人すらいないかと思うが)2009年8月の「ぱる通信」にも書いた、このチャイントンの町を題材に選んだのは、停電のことが書きたいと思ったからである。
僕はチャイントンで泊まった宿で、次の日のトレッキングの予約をした。アテンドしてくれるそのおじさんは、なんと「早朝5時半に迎えにくる」と言う。「いくら何でもそれは早すぎるのではないか」と言っても頑として譲らない。「そんなにここから遠いところに行くのか」と聞くと、「いやそんなに遠くない」という。堂々巡りのやりとりが続くので、僕は諦め、次の日に備えて早々に寝ることに決め、部屋で読書をしていると、突然明かりがつかなくなった。
●停電発生! さてどうする?

停電である。宿の主人に聞くと、いつものことらしい。ちょっと待っててと言うと彼女は、敷地内にある奥の建物に行ってしまった。「やれやれ」と思って所在なげに待っていると、けたたましいエンジン音と共に、宿内の明かりが灯った。自家発電装置があるのである。
これで読書でもして過ごせると思いきや、戻ってきた彼女は、「自家発電は応急的なものだから、扇風機以外は絶対に使わないでね」とだけ残して部屋に籠ってしまた。そうか、夜は停電があるから朝早く行動するんだな、それはそれで合理的じゃないか、と少し感心してしまった。「郷にいては郷に従え」である。僕も予定通り早々に寝ることにした。日本も少しは見習うべきだとすら思える。
が、いかんせんこの自家発電の音が馬鹿でかくて眠れない。いやほんと、もう、工事現場の真横で寝るようなものである。2時間くらいしても、ぜんっぜん眠れないので、もう一度宿のおばさんのところへ行って消してもらうようにお願いすることにした。
部屋をノックし、しばらく待っていると、ガタッとドアが少しだけ開いて不機嫌そうなおばさんの顔が出てきたので事情を説明する。けれど、僕の目にはしっかりと映ってしまったのである。ドアのすき間の向こうで、電源がついているテレビの姿が。逆上する気にもなれず、「なんでもありません」とだけ告げて部屋に戻り、僕は濡らしたティッシュを耳につめて、寝ることにした。やがて、燃料が尽きたのか、自家発電は2時間ほどでパタリととまった。
静けさに包まれたにもかかわらず、僕の心はざわついてなかなか寝付けなかった。
やっぱり停電なんてないほうがいいに決まっている。“慣れ”に甘えてしまう人間は、停電しようがしまいが、甘えてしまうのだから。

2011年1月26日水曜日

拝啓、パリコレ見てきました

◎冷静なフリなら誰にも負けない

「うぃ」「のん」「のん」「のん」「うぃ」
(ドキドキ)さあ、僕の(どきどき)番だ。冷静ささえ失わなければ、勝利は目の前のはずだ!
はい、閑話休題。僕は冷静なフリには慣れている、ふふん。ほんの数カ月前、インドのバラナシの路地で、神様の乗り物(ウシ)のウンコを踏んだときもそうだった。ベトナムで拾った24㎝くらいのサイズのビーサン(普段は28㎝)を履いていたかいもあって、ねっとりとした感覚が生足をサーっと駆け上がったが、「さっき食べたサモーサは、いい油を使えば絶品なんだけどなー」というような顔でごまかした。サモーサとチャイのタッグは秀逸だ。
タイにあるスコータイの遺跡群でウンコをもらしたときも、隣で泳ぐ子供たちと同じようなに無邪気な顔で、池に飛びこんでやりすごした。「さっきまでの苦悶の顔だって? いやいや、泳ごうか泳ぐまいか迷っていただけだよ。だって泳いでいるのは子供ばかりだからさー」
話がそれた。いや、そらした。
そのSPは、舐めるように僕の全身を見ると、ひと言「のん」といった。人のことを舐めるように見ておきながら、その言い草はなんだ! と思ったけど、日本人として醜態を晒すのはよくないので潔く引っ込んだ、というか押し出された。
落胆する間もなく、「KRIS VAN ASSCHE」のステージ会場からは、お洒落な音楽が流れてきた。

◎パリコレは誰でも見られる!?

2008年の9月も終わりかけた頃、僕はオーストリアのウィーンにいた。そのとき、ウィーン応用美術大学に通う友人の言葉に胸がを躍らせていた。
「パリコレは誰でも見られる!」
彼がどこかからか仕入れてきた話はこうだ。
《Paris Cllection(以下パリコレ)の会場に行き、“いかにも”な格好をして、「僕は川久保玲さんの甥っ子のハトコだけど、何か文句でもおあり?」という態度で臨めば、インビテーション(招待状)がなくてもパリコレが見られる!》
さらにさらに、《客席がまばらなのを嫌がるブランド側は、開演ギリギリになると対策を講じてくる。その一つとして、“アジア人”がある。アジア人だったら、ワケがわからない人がいても、(白人からしてみれば)顔の区別がつかないから問題はない》というのだ。“もっともらしい”話だ。
そんなわけで、友人に“もっともらしい”服を借りて、パリを訪れることにした。

まずはお手並み拝見と、日本ではけっこう人気があるけれど、パリではイマイチぱっとしない(失礼!)KRIS VAN ASSCHEの会場へと向かう。
ちなみに、パリコレは東京ガールズコレクションのようなたくさんのブランドが一堂に会するものではない。それぞれブランド毎に会場は異なり、あるブランドはこ洒落たマンションで行い、あるブランドは路上で行い、あるブランドは倉庫で行う。パリという街で行われる学園祭みたいなものである。

◎神秘性とメジャー路線をバランスよく、ね

KRIS VAN ASSCHEの会場へ着くと、さきほどのようなうわさを聞きつけたのか、アジア人(おそらく日本人)が15名ほどいた。文化服装大学院あたりにいそうな、奇抜なのにどこか画一的な“もっともらしい”格好をした輩ばかりだ。
さらっとお洒落を着こなす白人たちやバイヤーらしきアジア人たちが次々に会場入りをする中、いよいよ開演まで残り5分となった。

突然、いかにもSPというようなパリっとしたスーツを着こなす2人組の大男が入り口脇で何事かを呟いた。フランス語がわからない僕は「?」という感じであったが、SPのまわりには一気に人だかりができた。なるほど、募集開始というわけか。僕も急いで人だかりへ続く。
すぐさまSPによる、「選別」が開始された。SPの目に適った輩は、彼らの気持ちが変わってしまう前にと、すぐさま会場へ駆け出す。あえなく不採用となった輩は、有無を言わさず追い返された。ある身長145㎝くらいの女の子は青山のコムデギャルソンにいるスタッフのような服装と前髪パッツンおかっぱ頭で挑んでいたが、見事に採用された。
いよいよ僕の番。実は、この時のためにセリフを用意してきた。
「I’am illegitimate child of Yohji Yamamoto and Rei Kawakubo(僕はだね、ヨージとカワクボの隠し子なんだよ)」
完璧だ。深く追求してはならない神秘性とメジャー路線をうまく兼ね備えている。まさにオビワンケノービのような隙のなさ。
そのセリフを何度も、頭の中でリハーサルをしていると、「のん」という乾いた言葉が聞こえてきて、我に返った。(あれ、それ僕のこと?)
「のん?」と聞くと、「うぃ」と返ってきた。いやでも、まって、昨晩練習したセリフくらいせめて言わせてと、粘ろうとしたが、呆気なく群衆に押し出されてしまった。
落胆する間もなく、ステージ会場からオープニングの音楽が流れてきた。

◎パリコレHACKS!! 試行錯誤の上で…
その日の夕暮れ、カフェーで何がいけなかったのかを考えた。もしや、日本人離れした、この色黒さか?(インドやらタイやら中東やらを半年もふらふらしていたので、僕の肌はクメール人のように浅黒かった)いやいや、即席のこのファッションか?(借りたスラックスはあきらかにサイズが合っていなかった)あるいは、メガネがいけなかったのかもしれない。(メガネがないとよく見えない!)
とにかく、僕は僕なりに反省をし、翌日に備えた。友人らも意味深な顔で、カプチーノを飲んでいた。きっと頭の中でその日の反省をしていたのだろう。
翌日。今度は人気ブランドのMartin Margiela(マルタン・マルジェラ)だ。一筋縄ではいかない、はずだ! 先日の反省を踏まえ、スラックスは“あえて”腰パン履きをしている風にし、どでかいサングラスをつけた。デカサンはメガネを覆い隠す上に、浅黒い肌の露出も最小限にとどめてくれる救世主、いわば共和国側のアナキンだった!

◎知らぬ間に用意されていた最強のウェポン

腰パンにデカサンは、熟考を重ねた上での選択だったが、この日のマルジェラへの挑戦は実にあっけく終わる。友人の後について、SPの前につくと、僕の友人がひと言。
「僕ら、ウィーンでヴェロニク先生(Veronique Branquinho)に教わっている生徒なんだけどさ…」すると、いとも簡単に入場を許可されるではないですか! なにそのウェポン、デススター並みじゃありませんか!

「え、え、で、でも僕は生徒じゃないけどいいの?」
土壇場で真面目な日本人としての国民性が出て、僕は後退りした、なんてことはない。小躍りしそうな気持ちを一生懸命抑えて、「まあ当然っしょ」という顔をして会場入りをはたした。
コレクション自体は、マルジェラ20周年記念だったらしく豪華で華やかで素晴らしかったように見えた。
友人2人は、「ラフシモンズがいる」だとか「あの人は●●の人だ」だとか「ちょっとそのチョイスはないだろう」だとかいっていたけど、僕にはよくわからなかった。
ラフシモンズは、ジーパンをめちゃめちゃかっこ良く履きこなすただのオッサンにしか見えなかったし、モデルが着る服の素材の使い方の良さとかまったくわからなかったけれど、日本に帰国後、僕はたくさんの人に「おれ、パリコレ見てきてさー」と自慢をしている。
「すごーい! なんでー、どうして見れたのー?」とよく聞かれるので、いつも「カワクボの友人だとはったりをかましたら入れてくれた」といっているけれど、実情はこんな感じです。ウソついてスミマセン…。