2011年10月25日火曜日

クアラルンプールはそこそこに、僕はペナン島へやってきた。


●その道の先にあるもの

この坂を登ったら折り返そう。
この曲がり道の先を見たら引き返そう。
次の集落を見学したら帰ろう。

同じようなことを何度も思った。けど僕の足は自転車のペダルを踏み続けた。


坂を登った先には下り坂があった。アドレナリンがあふれ出てくる、その勢いをそのままに、自らの力で登った分の坂を今度は一気に駆け下りる。
坂を下り終えると、我に返った。そして来た道を振り返る。同じ道を、それも坂道を、引き返したいとは思えなかった。

曲がり道の先には、さらなる曲がり道があった。曲がり道があると、その先の風景は見えない。先も見えないが後ろも見えない。一度すぎた曲がり道。振り返ると、自分がいま通ったばかりの道は当然見えなくなっていた。でも、僕はその先(後ろ)の風景をもう知っている。知っている道よりも、知らない道のほうが魅力的に感じるのは当たり前の話だった。曲がり道を引き返す気にはなれなかった。

●ペナン島の大きさ、フェリンギビーチで待つ女の子

僕は頭の中でペナン島のサイズを推し量る。世界地図の中でのペナン島、いや、クアラルンプールのバスターミナルでもらったマレーシア全土の地図にあるそれのほうが想像しやすいか。前年に北海道をバイクで一周したときに出会ったチャリダーの一人が言っていたことを思い出す。
「だいたい、一日で80kmから100kmくらいの移動です。それ以上だと毎日走るのが辛くなります」
なるほど、100kmくらいだったら帰れるというわけか、それなら(地図を想像するに)行けそうだなと思っていたところ、緑の看板でジョージタウンと表示されていた。距離は書いていないが、この道を行けば、僕が泊まっているジョージタウンの安宿に帰れるのだ。
ひと際急な坂にさしかかった。町中で借りた古ぼけた自転車はタイヤの空気が甘くてなかなか前に進まない。汗だくになって、坂の頂上についたときには決意が固まっていた。このままペナン島を一周したらいいじゃないか、と。

本当はジョージタウンから10キロあまりにあるフェリンギビーチを訪れるつもりで自転車を借りた。綺麗な海のあるリゾート、現地のビーチボーイたちが観光でやってきた女の子を口説く情景が頭に浮かぶ。そんな彼らに嫌気がさした女の子とお話でも出来たら…、そんな空想を頭に描いて僕はフェリンギビーチに到着した。風が心地よい。朝一でジョージタウンを出てよかった、あのヤシ林の向こうに、楽園があるのだなと、自転車を電柱にくくりつけ、ビーチへと足を向ける。

ビーチはただただ汚かった。そこにはリゾートという雰囲気は皆無だった。
僕に“助けを求めるはず”の女の子の姿はなかった。だからというわけではない(はずだ)が、厭世観というのか、嫌悪感というのか、もやもやした気持ちにとらわれた。
早々にビーチを離れることにした。

ジョージタウンに戻る気にはなれなかった。なにせまだ正午にもなっていない。
そこで島の奥部である西へ向かうことにしたのだった。

●はたの食堂には食事のサービスはなかった

チャリダーと出会ったその宿は紋別町にあった。急な雨が降ってきた夕暮れ、9月だというのにオホーツク海から吹き込む寒風で、かなりしんどかった。そんなとき目に飛び込んできたのが、その宿の看板だった。
そこには、「ライダー&チャリダー共和国」とあった。ライダーハウスという、バイクか自転車(あるいは徒歩)で旅をする人のための宿である。
助かったと胸を撫で下ろしたのだが、実はその宿がかなり曰く付きの宿だった。
宿主のおじちゃんは畑野さんといって(そのまんまです)、人はいいのだが、まぁよく飲まされた。さらに語らされた。
「好きな言葉をこの紙に書いて、自己紹介とともに夢を語りなさい」と紙とペンを渡されるのだ。そんなの無理だよ…と思っても、その日泊まっていた10人ほどの全員が強制でやらされた。しかも、制限時間が決まっている。「3分以上」という…。
元来、人前で語ることが苦手な僕なので、これはかなりキツかった。さらにお酒もたいして飲めないのにとにかくどんどん勧められる。しかもその酒というのが、焼酎の牛乳割りのみである。畑野のおじちゃん曰く、これが一番胃に優しいのだと得意げに話していた。健康を気にするくらいだったら飲まなければいいのに…。
だが、今日もはたの食堂はあるらしい(ネットで調べたところ)ので、その説もあながち間違いではないのかもしれない。

●讃えられたチャリダーは彼女たちの期待に応えることが出来なかった

話が逸れてしまった。

日が照りつけ、気温が最高に達した頃、僕はペナン島の最南端に着いた。ここから東海岸を北上すればジョージタウンだった。そこからの道は本当に辛くて、とてつもなく長く感じられた。熱さと渇き、そして尻の傷み(サドルがやけに固かった)で、ろくに前を見ずに、ただひたすらにペダルを踏んだ。車の交通量も多く、自転車なんて僕以外誰もいなかった。いつのまにか、自動車専用道路のようなところに入ってしまい、周囲の車が時速100キロくらい出している中、ぎこぎこと進んだ。けっこう死ぬ思いだった、いやほんとうに、あっさり書くけれどさ。

日も傾きかけた頃、見覚えのあるジョージタウンの町が見えてきた。ただ、そこからさらに僕の泊まっているLove Lane Innという宿を見つけ出さねばならなかった。
何度も同じ道を行ったり来たりしながら、ようやく宿に戻れたのは完全に日が落ちてからだった。
やっとのことで、自転車を宿の壁にくくりつけて、テラスに座って休むことができた。

頭がぼぉっとして、頭が働かない。何でこんなことになったのだろう…という気持ちに苛まれた。

「そうだ、ビーチにギャルがいなかったせいだ」と頭の中でフェリングビーチに悪態をつくことにした。頭の中が、悪態でいっぱいになってきたとき、ギャルの声が遠くから聞こえてきた。幻聴…?
「なんだ、なんだ、今さらになって呼んだってダメだぜ。おれはもう疲れているから寝る。他の男のところに行きな!」いきがる自分を頭の中で夢想する。

女の子の声は一向に途切れない。どうやら幻聴ではないらしい。宿の主人にもらった水をぐいっと一気に飲んで顔を上げると、そこには本当に数人の女の子がいた。
「おにーさん! こっちきなよ!」
「暇なんでしょう?」
みな、大きな声で僕に話しかけてくる。時折大きな笑い声もする。wan hai hotelと書かれたその宿の入り口にいた娼婦らしい女の子たちは、飽きずにいつまでも僕に声を掛けてくれた。
マレー語がわからない僕は、段々と、なんだかその日のペナン島一周の頑張りを誉められているような気がしてきて嬉しくなり、夢見心地のなか、彼女たちの笑い声をいつまでも聞いていた。

何時間経ったのだろうか。数十分だろうか。ふと、我に返ると彼女たちの姿はなかった。目の前で宿の主人がコクリコクリと眠る姿だけが、変わらずそこにあった。





そして翌日、僕は疲れを取るため、日がな一日宿前のテラスで読書に耽る。そして、事件に遭遇することとなった…。

2011年10月20日木曜日

「世界遺産」の町、マラッカへ


●マレー鉄道は快適だった

マラッカへ行くために降り立ったのはTampinという駅。
ここからバスでマラッカに向かうつもりだった。
Tampin Railway Stationは質素な造りで、周囲にお店らしいお店もレストランだとかホテルといった類いの建物も見当たらない。肝心のバスはなく、数台のタクシーのみがとまっていた。



そのタクシーも数少ないTampinで降りた乗客が乗り込み、残り1台となってしまった。
慌てた僕はおろしていたバックパックを担ぎ、タクシーへと向かった。が、最後の1台のタクシーも、マレー人の女の子が先に乗り込んでしまった…。

町の方向さえわかれば何とかなる、と思い込んでいる僕はこの旅のためにコンパスを用意してきた。
「困ったら、歩けば何とかなる。コンパスに従って南西に向かえばいいだけのことだ」と一人ほくそ笑む。タクシーを諦めることにした。
むしろ、「これこそ旅だ、こんな状況こそを楽しまなければ意味がない」と思い、気分が高揚してくる。旅に出て4日目にして旅の玄人にでもなったかのような気持ちだった。そんなふうに悦に入りながら、南西方向にあるマラッカまで歩み始めたら、最後のタクシーに乗り込んだ女の子に声をかけられた。

●女の子に声を掛けられるなんて久しぶりだ

「あなたどこへいくの?」
振り返ると、タクシーの窓を開けたマレー系の女の子が英語で尋ねてきた。
マラッカに行きたいことを伝えると、女の子はタクシーを降りて僕のカバンを奪い取った。自分の置かれている状況がよくつかめなかった。
女の子は僕のカバンを荷台に積み込んで、「ハリーアプ!」と少し不機嫌そうに僕を睨んだ。
なんかイケナイことしましたっけ?? ハテナ顔でいると、女の子は僕をタクシーの中へ押し込んだ。
「私とあなた、1RM(リンギット)ずつよ。さぁ運転手さん出して!」(※1RM=30円弱)
訳もわからぬまま、タクシーは駅を離れていく。

●コンパスあれば憂いなし

先ほどまで不機嫌そうだった女の子の表情は幾分和らいでいた。不機嫌だったと言うか、単純に急いでいただけのようだ。
僕は少し安心して座り直した、意外と快適なマレーシアのタクシーの椅子に感心して。案外ラッキーだったのかもしれない。タクシーなのに1RMでマラッカまで行けるのだから、かなり安いだろう。さすがローカルのひとが交渉すると違うもんだなぁ。
とは言え、その女の子は僕に惚れこんで声を掛けてきたわけではないことは、一目瞭然だったので、冷静沈着な僕はさっそくコンパスで、きちんとマラッカに向かっているかを確認することにした。
(マラッカはここから南西だから、ええっと、ええっと、こっちのほうに行くべきなんだけど、どうかなぁ、あれ、いや、ん、待てよ? って、まるっきり反対方向じゃん!)
すぐさま、僕はタクシーのおじさんに降ろしてくれと伝えるよう、女の子に通訳を依頼した。
しかし、「ノーウェイ!」と、一蹴される。えぇ〜、それはこっちのセリフだよ!
コンパスを見せ、マラッカはサウスウエストだと主張するも一向に取り合ってくれない。
「このコンパスは日本製だよ? 正しいんだよ? きみわかってるかい?」
女の子は黙って頷くだけだった。運転手と女の子がグル…? まさかの事態が頭をよぎる。

●恋の種は常に蒔かれている

着いたのはバスターミナルだった。
女の子は急いでいるふうで、そそくさとタクシーを降り、近くにいた女性に声を掛けて自分のバスへ駆け込んでいった。
その女性はおもむろに近づいてきて「あのバスよ」とマラッカ行きのバスを教えてくれた。どうやらさっきの女の子が説明してくれたらしい。
「お礼を言わなきゃ!」
そう思ったときにはとき既に遅し。彼女の乗ったバスは轟音を鳴らしてバスターミナルを出て行ってしまった。
彼女に悪いことをしたな…人の優しさよりもコンパスを信じていた自分が恥ずかしくもあった。
あるいはあんなに親切な女の子だったら、マラッカは後回しにして、彼女の住む町だか村までついていってもよかったかもしれないなぁと思考は一気に180度変わる。人間とはゲンキンなものだ。人間というか僕がということだけど…。
あまりにコンパスに頼るのはやめよう。このとき、そう決意して僕はマラッカ行きのバスの乗り込んだ。

●ここは、ほんとうに世界遺産なのだろうか…

バスは小学校の下校時間と重なったのか小学生で超満員。次から次へと小学生が乗り込んでは降りていく。

「うししし、ばいばい! またね!」
「うん、またあした!」
くり返される、笑顔で溢れたさようなら。日本でも、中国でも、ヨーロッパでも、どこででも見られた小学生たちの騒がしくも微笑ましい情景。

そんな彼らを眺めていると、あっという間に1時間半が経過。日が暮れ始め、バスが静けさに包まれたころ、マラッカに着いた。

僕にとってマラッカといえば、マラッカ海峡が一番に頭に浮かぶ。スエズ運河やパナマ運河と並んで世界でも指折りの舟の交通の要所であり、その歴史は大航海時代にも遡る。憂愁という言葉が似合う町をイメージしていたのだが、いまいちぴんと来ない。
マラッカは至る所で工事をしていた。歴史の町としての観光地を目指すと標榜するが、どう見ても歴史の浅い綺麗で整然とした都市へと向かっているようにしか見えなかったせいであろう。
チャイナタウンや旧市街にそれなりの歴史的な雰囲気が見受けられたが、テーマパークのような乾いたような空気に包まれ、ここが「マラッカ海峡の歴史的都市群」として世界遺産(文化遺産)に登録されているとは思えなかった。
よほど、Tampinからマラッカに向かうバスのほうが、僕にとっては興味深いものであった。
「旅の醍醐味は人びとの生活にふれることであるのかもしれない」
そんなことをダニのいる安宿の8人部屋のドミトリーで考えた。部屋は僕一人だった。

翌日の夕方、一通りマラッカの町を歩いた僕は夕日の沈むマラッカ海峡を眺めるためにセントポールの丘に登っていた。
頂上はまだ先だった。ふと、そろそろ見えるかなと後ろを振り返ると、マラッカ海峡が遠くに見えた。マラッカ海峡には数隻の大きな舟があるだけで、他におもしろいものは何もなかった。夕日も濁った空と雲に隠れて、美しくも何ともなかった。
頂上まで登るのはやめにした(昼に一度来ているし…)。
3-4日は滞在するつもりだったマラッカだった(お気に入りの定食屋も見つけていた)が、そんな空を見ていたら、いても立ってもいられず、その日のうちに、クアラルンプールに向かうことにした。

2011年10月12日水曜日

ルアンパバーン行きのスロウボート 後半


●パクベンのレストラン

待てども待てども出てこない。というか店員さんの姿すら見えなくなってしまった。1時間たっても野菜炒めすら出てこなかった。ただただ時間だけが過ぎた。
「おいおいおいおい、メシ喰わせろ! おせーぞ、どうなってんだラオスさんよ!」
「お客さま、少々お待ちください。もうまもなく料理のほう出来上がりまして、お持ちいたします、それまでの間こちらのサラダをお召し上がりください」
「けっ、俺だからそこまで怒らんが、フツーの客だったら帰ってるぞ!」
なんていう状況にはならず、僕は日本人らしくクレームのクの字も言わずにジッと堪えた。いや堪えてすらいない。苛立ちすらなかった。なにせ、このBeer lao(ビアラオ)が美味いのだ。東南アジアのどの銘柄よりも。ビアラオを飲み、黄昏どきの涼しい風を全身に浴びていると、これ以上ない幸せに包まれた。
「あぁ、あるいはこのまま料理が出てこなければ、永遠にその幸せが続くのではないか」と、そう思えてしまう。
ついに1時間半を経過しても何も料理は出てこなかった。
……気づくとお兄さんが立っていた。
幸福感だけで腹は満たされないことに気づき始めた矢先だった。ようやく食べられる。この1時間半は美味しく料理を食べるための前菜だったのだと思えた。空腹は最大のおかずだ。いちおう、今後やってくる観光客のために「ふっふっふ、なんとか、寸でのところで怒られずにすんでよかったですな、社長さん!」と嫌みの一つくらいは言ってやろうかと思った。
が、彼の口から出てきたのは、「マリワナあるね」という言葉だった。僕は自分の目と耳を疑ったが、聞き間違いではないようだ。
ラオスはそう甘くはなかった。淡い期待は余計に自らを落胆させる。彼の手にはパッケージに包まれたタバコの葉のようなもの、出てきた言葉は東南アジアのプッシャーの常套句だった。そう、彼はプッシャー(密売人)だったのだ。料理はまだまだ遠いらしい…。
「マリワナ買わないか? 安くて上物だよ」
「いや、安いのはいいけど、ここレストランですよ…」
「ここ、警察いないからノープロブレムね。これで10ドル、どう?」と出してきたパッケージには、わんさかとマリワナが。これで10ドルは安すぎる。ごくりと喉の音がした。が、空腹のほうが上回った。
「僕はご飯を食べたいんだ。だからマリワナなんて要らない!」つい声が大きくなってしまった。彼はなぜこいつは大きい声を出すのかと、びっくりした顔で引き下がっていった。

●ビアラオの恐怖

何気なく外に目をやると、店員さんがレストランに戻ってくる姿があった。
「ど、どこいってったんだ!」もうさすがに、堪忍袋の緒が切れた。僕は彼に文句を言ってやろうとキッチンに向かった。
「おい、君」クラッチを握り、ギアを一気に2段上げる。
「どうなってるんだ!」さらにギアを上げ、4速に入れる。
悪気はないらしい。笑顔で振り返った彼に、畳み掛けようとギアを最大の5速に。
「り、料理は、まだ来な…」と言いかけて、彼の背後に整然とBeer laoが並んでいるのが目に飛び込んできた。う、愛しきビアラオ!
「料理は、まだ来なくてもいいから、とりあえずビアラオちょうだい!」
あぁ、ビアラオの恐怖。
パクベンには毎日のように僕らのようなバックパッカーが訪れる。このレストランもその恩恵に預かり、それなりにお客さんがやってくることは容易に想像できる。それでもこのゴーイングマイウェイでスローな接客のままなのは、そのほとんどがスローボートで夕方に着いて、翌日の早朝に村を出ていく一見さんばかりだからだろう。そしてみなビアラオの美味さに文句が言えず、安穏とした接客が続く。あるいは旅人たちがこのラオスでのノロい“接客体験”を武勇伝のように語ることも作用しているのかもしれない。
「いや、ラオスのレストランはさ1時間半も料理が出てこないんだよ、参っちゃったよ」と満面の笑顔を浮かべて語る姿を見て、周囲の人はみな「あぁ、そんなのもアリだな、だってラオスに行ったんだもの、そのくらいのことは経験としてむしろ味わいたいものだ」と感じるのかもしれない。そうしてこのレストランはいつまでたっても、このままなのである。

●新鮮な食材に舌鼓をうつ

パクベンのレストランについてツラツラ述べてきたが、実際のところ1時間半も料理が出てこないのは、注文を受けてから食材を買いに行くことによるところが大きい。
逆にそれだけ新鮮なのかもしれない。ラオスで牛肉といえば、水牛を指すことが多いが、総じてそんなに美味くない。が、ココで食べた1時間半待たされた水牛は結構イケた。

その日の宿であるゲストハウスに戻ると灯りが全て消えていた。そういえばレストランもいつの間にか看板の灯りが消え、それぞれの机にある頼りないランプの灯りだけになっていた。おそらく送電が終わったのだろう。停電かもしれない。
そこで合点がいった。レストランが食材を持たないのは冷蔵庫が意味をなさないからだろうと。一日に何度も電気が途絶えれば、肉はすぐに腐ってしまうだろう。だから備蓄はしない。当然の考えである。


僕らのスローボートは明朝、時間通りにパクベンを出発した。スローボートはルアンパバーンに向けゆっくりと進む。その船の歩みは、ただただメコン川の流れに身を任しているだけのように思える。

2011年10月7日金曜日

旅の初日は、アイスクリーム事件

◯“先進国”シンガポール

安宿がひしめくらしいリトルインディアに行けば何とかなる、僕はそう思って日本を発った。

2008年4月1日の、200日に及ぶユーラシア大陸横断の旅への初日のこと。
海外へのフライトが往々にしてそうであるように、僕が乗った飛行機も定刻通りとはいかなかった。空港到着は、3時間遅れの深夜の2時前。そうは言っても、先進国であるシンガポール。空港を出れば、市内へ向かう交通機関は整っているはず…。
そう思い、僕は空港の外に出た。すると南国特有のモワッとした空気に包まれた。あ〜これだ。この感じがたまらない。体は少し気怠いけど、心がメルト状態になって、セロトニンが分泌されていくのがわかる。
ANAの往復チケットでシンガポールに来た。始めから、帰りのチケットは捨てるつもりだったが、この空気に触れて改めて、旅の高揚感が増してくる。
帰りの航空券を破り捨てることにした。51070円の航空券だったので、その半分の25535円を捨てたことになる。それだけの経験を得るのだと僕は鼻息が荒くなった。

市内へ向かうバスは既になかった。仕方なくタクシーに乗り込むことにした。

◯安宿ひしめくはずのリトルインディア

タクシーから地下鉄のlittle india駅が見えると、僕はタクシーの運ちゃんにココで降ろしてくれればいいと言って、タクシーを降りた。さすが、大都会シンガポールのタクシーである、ボッタクリとは無縁だった。

直感的に安宿は駅から近くにあると思っていた。容易に見つかるだろうと、浅い考えの元、周囲100メートルを探すも、宿はなかなか姿を見せない。すでに夜中の3時をまわっていることもあり、町は静けさに包まれていた。
ちょっと焦ってきた所に、優しそうな浅黒いインド系シンガポール人が通りかかった。

◯親切なお兄さん!?

「すいません、このあたりで安い宿を探しているんだけれど、知りませんか?」
空港で手に入れておいた、簡単なシンガポールの地図を片手に、笑顔で声を掛ける。
彼は聞こえているのか聞こえていないのか、あまり反応がない。僕の英語が悪いのか?
「あの、ホテルってこのへんにありませんか?」
と言い方を変えてみる。彼はわずかながら、微笑みを見せた。あーよかった、わかってくれたんだ。僕はホッとして彼の第一声を待った。
が、いっこうに教えてくれない。すると彼は、おもむろに僕の手を取り、少し離れた所にある街灯を指差した。
「なるほど、あの灯りの下で地図を見せろというんですね」
そう言いながら、僕は彼と手を繋ぎながら、歩いていく。彼の手は柔らかかったけど、すこしだけ汗をかいていた。でも彼の微笑みを見たら安心できた。「タクシーでもボラなかったんだ、シンガポールは絶対に大丈夫だ」そう思っていた。

街灯の下へ着き、僕が地図を開いて安宿の場所を再度尋ねようとすると、なぜか彼は、もぞもぞしだす。そして路駐してある車の影に、引っ張られた。
おかしいなと思いながらも、彼から手を放し、地図を広げて、「この辺りだと思うんですけど…」と言いながら地図から目を上げてみると、彼のイチモツがぶら下がっていた。
左手でズボンを下げ、右手でモノを支え、僕に微笑みかけている。そんな彼の姿は、あまりにも自然だったので、僕は一瞬何が起こったのかわからなかった。2、3秒、僕の体は硬直してしまった。

◯確かに“アイスクリーム”は食べたいけれど…

お互いが硬直したまま、数秒がすぎた。彼は彼で、その状態から動くことなく、ジッと待っていた。そしてようやく重い口を開いた。
「アイスクリーム、プリーズ」
おぉぉ、海外は、お口でスルことをアイスクリームで言うのか! 勉強になるなー! 何てことを冷静に考えられるわけもなく(そもそもこんなことがあったからhttp://unendlicher-tanz.blogspot.com/2010/09/blog-post.html サックだと知っている)うわーーーってなる。
うわーーーーってなって、僕の体は硬直状態に。
彼は踏ん切りがついたのか、早く舐めろとばかりに、プルプルと振ってくる。
気付くと、彼の左手が僕の腕をつかむ間際だった。
やばい! 逃げろ。
僕は自分の足に、命令を送った。だが、僕の足はなかなか言うことを聞いてくれない。
中学2年生の時に初めて女の子に好きだと伝えるときと同じくらい、「思い切り」が必要だった。あのとき、僕は告白するのに、10分ほどかかった。結局気の利いたことは言えず、「付き合って下さい」とだけしか言えなかった。
この時は10分なんて猶予はない。今すぐ動かなければならないのだ。
「動け、動くんだ足!」心の中で叫び続ける。
するとたまたま通りかかった車のヘッドライトが僕を照らした。それが功を奏したのか、足が動くようになった。
そして300メートルほどの全力疾走。
一度だけ振り返ると彼はバイオハザードのゾンビのように、ゆっくりと歩いて僕の方に向かってきていた。
その姿を見て寒気、いや悪寒が走った。
僕はそれ以上振り返ることはなく走り続けた。

◯初めからそうすればよかった

走っていると、Hotel 81 Selegieという看板と灯りが見えたので駆け込む。そんな僕を見て、驚いたフロントの女の子が、「どうしたの?」と聞いてきた。
僕は何だか急に切なくなってきた。
僕はどうしたのだろうか。こんなところまで来て何がしたいんだろうか。旅の初日からそんなモヤモヤ病にかかってしまった。
もう一度、「どうしたの?」と聞いてくる。
僕はハッと我に帰る。
そして、「えっと、この辺りにバックパッカーが泊まるような安宿はありますか?」と聞くとあっちのほうよと、シングリッシュで親切に教えてくれた。

あっちは、路地の入り組んだところだった。またしても見つからない。
もう、やだなーと思っているとタクシーが通りかかる。呼び止めて、安宿はどこかと聞くと隣の路地にあるよと教えられ、ようやくCheckers Inn Backpackers Hostelという宿に着く。
しかしその宿は、フロントまでバックパッカーたちで埋まるほどの混み具合だった。何とかして宿のスタッフを呼び出して交渉するも、これ以上は泊まられないとむげに断られてしまう。
泣きそうになった。
すがりつくような思いで「僕は、じゃあどうしたらいいですか? 教えて下さい」と聞くと、近くの宿を紹介された。「確かそっちにもドミトリーがあったから安いはず」と。
教えられたほうに行くと、すぐにHotel 81 Dicksonという安宿は見つかった。部屋も空いていた。一泊160シンガポールドルくらいだったと記憶する。

ジョホールバル 3日目のこと


●ジョホールバルにやってきた

「ジョホールバルって町は何にもない所です」
「……」
「えぇ、もちろん日本での知名度は高いですよ。でも、名前だけが一人歩きしているところがありますね」
「……」
「いえ、そんなことはないですよ。ただね、僕は思うんですよ。日本人でなかったらこの町に泊まることはなかっただろう、って。この町の名前に対する引力に対して敏感に反応してしまっただけなんだと思います」
「……」
「来てみての、感想ですか? ですから先ほども言ったように名前負けしているなぁという以外とくに何もありません」

橋で繋がれたシンガポールとマレーシアの国境を僕は歩いて渡る。シンガポールの出国審査もマレーシアの入国審査も至極簡素であっさりしたものだった。ちょっと隣町へ買い物へ、という感覚で地元の人は国と国を行き来しているのだ。
本で何度も読んだそうした事象も、実際に目の当たりにするとなかなかどうして感慨深いものがある。
あぁ、みんな国境なんて、買い物袋をぶら下げながらさくさくと歩いて渡るものなんだなぁと。

ジョホールバルは「ジョホールバルの歓喜」を喚起させるようなものは何一つなく、見所もない平凡な町であった。
「ジョホールバルになぜ泊まったのか?」というインタビューを受けたら冒頭のように答えるだろう。


●マレー鉄道のチケットを買う

翌日にマレー鉄道に乗るためのチケットを買う。
マレーシアではバスでの移動のほうが一般的のようだが、僕は電車に乗りたかった。
旅の出発前に見た『ダージリン急行』が影響しているのだろう。『ダージリン急行』では三男のジャックが電車の中で行きずりのセックスをするシーンがある。
お相手はインド現地の魅惑的な女性だ。心のどこかで僕もそんなシチュエーションを期待していたのかもしれない。

駅にあるチケット窓口で、マラッカに行きたいと言うと「それならバスがいいわよ」と言われた。
「バスじゃなくて、電車で行きたいんです」
「どうして? マラッカは電車が通っていないのよ。残念だけど、マラッカと言う駅は存在しないの」
「バスだと他の乗客と近いから無理なんです。どうにかして列車に乗れませんか?」

窓口の女性に無理だと言われれば言われるほど、電車の中での秘め事が頭をよぎる。
食べるなと言われれば食べたくなる、するなと言われればしたくなる。子供のような発想だ。旅は思考回路を幼少時のそれに戻してしまう作用がある。

「わかったわ。どうしても電車がいいのね」
彼女の「どうしても」というセリフがどうしても意味深に聞こえてしまう。あぁ…。
「そうしたら、このTampinという駅で降りなさい。ここがマラッカから一番の最寄り駅よ」
かくして、無事明日の電車の切符を手に入れることができた。

ジョホールバルで泊まったのは新山ホテルという一泊800円ほどの安宿。
その中でもベッドのせいでドアが全開できない最も狭い部屋だった。窓はなくエレベータが隣接しているため、ものすごい轟音がした。シャワーもトイレもない。
が、客も少ないためか、轟音に悩まされることなく眠りにつくことができた、妄想は程々にして。

シンガポールを脱出せよ

●足が太いのにホットパンツを着る

「国境はどこですか。マレーシアへ行きたいんだけど」

国境近くのマクドナルドのレジで、僕が尋ねるとマレー系の彼女は「私に任せて」と言わんばかりにウィンクをした。
マレー人にウィンク…。少し違和感を感じた、というか彼女の雰囲気にはウィンクはミスマッチだった。足が太いのにホットパンツを着る女の子みたいだ。

「そっちに行けば、国境よ」
万遍の笑みを浮かべて、彼女は答えてくれた。でもぜんぜん僕の好みのタイプじゃなかったので、その笑みは東南アジア特有の猛烈に強い冷房にのって消えていった。
「OK、サンキュー」
とだけ答えて、僕は踵を返した。次からは可愛い子に尋ねようかな…なんて考えていると、それを察したのか、さきほどの女の子が僕を呼び止めた。
(いや別に君が可愛くないから、何も買わずに行ってしまおうってわけじゃないんだよ、っていうか、それって英語だとなんて言うんだ?)とテンパりながら振り返る。

「紙かなんか持ってない?」
妄想に反して彼女は微笑んだままだった。ノートならカバンにあったけど、面倒だった。何度も言うようで申し訳ないが、彼女が可愛かったのなら話は別だが、あいにく興味が沸くような子ではかった。
「持ってないんだ」
素っ気なく答える。
「そう…」
彼女は少し困った顔をして考え込む。
すると、何かを思いついたように、レジでピピッとした。レジからレシートが少しだけ出てきた。レシートのロールの詰まり防止ボタンか何かを押したのだろう。彼女はそのレシートの切れ端で、僕のために国境までの地図を書いてくれた。

●恋の瞬間は、些細なことで

えっ? 僕はその「機転」に驚いた。

日本でレジの店員さんが外国人に道を尋ねられ、テンパる様子は容易に想像できる。とは言え、基本的には人がいい日本人なので、少しでも英語の話せる人がいれば戸惑いながらも道を教えてあげるだろう。
だが、「とっさにレジからレシートの切れ端を取り出して、そこに地図を書き込む」なんて離れ業ができる人はどれだけいるだろうか?

僕は彼女に感動した、と同時に彼女のことが一気に好きになってしまった。

「君、マクドナルドでレジの店員をやめて、僕と日本でビジネスをしよう。もちろん君は僕のハニーになるんだよ。そうだな…子供は3人で、世田谷にあるインターナショナルスクールで、育てようじゃないか。日本とシンガポールとマレーシアの3つの名前をつけようね。日本語とマレー語とシングリッシュができる、国際的な子供…ステキだと思わないかい?」
と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。旅に出て2日目で何を言おうとしてんだ、このバカちんが。ということで、買う予定のなかったマックシェイクだけで何とか我慢して、僕は国境へととぼとぼと歩いた──。




●シンガポールを脱出せよ


シンガポールの滞在はほぼ一日だけだった。
なぜかと聞かれても答えに窮する。シンガポール(華僑)の都会っ娘の生足がとても綺麗で(性欲的に)我慢できなかったからというわけでもないし、一泊1000円以上という宿代に怖れおののいたわけでもない(それまでに旅をしたことがあるアジアは中国だけだったが、宿代は一泊数百円だった)し、シングリッシュがよく聞き取れず、自分の語学力のなさに落胆したからというわけでもないし、アイスクリーム事件(※他記事参照)でビビったわけでもない。いや、それらはすべて事実だ、答えなんて自ずからわかっている。

でも一番の理由は、旅を味わいたかったからだ。そのためにはシンガポールは都会すぎたし、洗練され過ぎていた。
とっととマレー鉄道に乗って、旅情にふけりたかったというのが本音だ。

旅の2日目。シンガポールで朝9時に起きると、まだ同じドミトリーの白人バックパッカーたちは夜遊びにお疲れなのか熟睡していた。

彼らを後目に僕はそそくさと宿を出た。
国境近くに行けば何とかなるだろうと思い、空港でもらった地図を頼りに、シンガポールのMRTに乗って、もっとも国境に近そうな駅へと向かった。

駅を降りて僕はコンパスを取り出す。コンパスは裏切らない。「コンパスが指す北のほうへ向かえば、マレーシアに行ける」そう信じて北へと足を運んだ。
しだいに、雑踏が見えてきた。国境周辺にいることは間違いなかったが、イミグレーションの正確な位置がわからなかったので、僕は近くにあるマクドナルドに入ることにした。そこでレジにいる女の子に国境の場所を聞くと親切にも地図を書いて説明してくれた。
僕はその地図を頼りに何とかイミグレーションオフィスに着いたのだった。