2012年6月1日金曜日

ラオス・ポーンサワンの食堂


●東南アジアでよくあること

ラオスのポーンサワンという町にいる。
宿の近くにある食堂で夕食をとる。テレビにはサッカー中継が流れている。
どこの国だろうか、ヨーロッパのリーグのようだが、判然としない。ラオスの元・宗主国であるフランスのマイナーチームだろうか。ビアラオを飲みながら、いくぶん退屈なその試合を遠い目で眺める。
「どこかの惑星の電波を何とか拾っているかのような映像だなぁ」
粗い映像にそんなことを思う。
それだけ退屈であり、また、ゆえに幸せだったりするのだ。アジアはこうでなくてはならない。
日本ではなかなか得られないような多幸感のなか、食堂の親父は客足が途絶えたのをいいことに僕の隣に座って、宇宙からの映像の音量を上げる。彼も暇なのだろう。共に、サッカー観戦に興じる。
少しして、妻らしき女性が何かを叫んだ。萎縮する風ではなかったが、親父はテレビの音量を少しだけ小さくした。
僕に「やれやれ」といった表情を見せる。
それに応えるように、僕も肩をすくめる。
彼は、目線を宇宙からの放送に向けたまま、「どこから来た?」と聞いてきた。タイ語で「イープン」と答える。タイ語とラオ語は大阪弁と東北弁よりも似ている(個人的な主観)ので、通じたようだった。
すると、「この子を君にやろう」と隣のテーブルに座る女の子を指差した。
その類いの言葉を何度言われただろうか。東南アジアを廻る日本人なら誰でも一度や二度は耳にしたセリフ。特段珍しいことではない。
既にひと月ほどアジアをフラフラしている。
もうそんな言葉一つに心が躍るような旅行者ではない。
と思っていたけど…。

●やっぱり悪い気はしない

それまで下向き加減だった娘さんが、はにかんで見せた。その姿に、ついグッときてしまった。まったくもって悪い気はしない。
ポーンサワンは、巨大な石壺で有名なジャール平原という観光地の玄関口であるが、それ以外にはこれといった見所はない。
一つ前の滞在地バンビエンで下痢になって以来、ずっと体調が悪かったので、身近にあるその食堂に入り浸った。朝、起き抜けに食堂で甘い珈琲を飲み読書に耽る。日が傾き始めた夕方には、ビアラオを片手にサッカー中継を眺める。
主人に「こいつを君にやる」と毎度のように言われた。その度に、僕は笑って「大人になったら、ね」と応えた。


ジャール平原



●ルアンパバンからバンビエンへ

いささか観光地にすぎるルアンパバンを後にし、僕はバンビエンへと向かった。
バンビエンには、エメラルドグリーンの池や無数の鍾乳洞、水牛で溢れる川などがあった。
そのどれもが旅情をかき立ててくれたのだが、どこかで馴染めないところがあった。

レストランで食事をとっていたときのこと。
バンビエンのいたるところがそうであるように、そこのレストランも白人であふれかえっていた。
とても騒がしいので、食事を取ると早々にお会計を済まそうとした。すると店員から、「ジョイント買わないか」とマリファナを勧められた。
そう、ここバンビエンはそのための町だったのだ。
まったくそんな気分ではないので、お断りして宿に戻る。なんだか嫌な気分だった。

バンビエンの河畔


●バンビエンで下痢になる

その日の夜、下痢で一晩中身悶えた。15分に一度はトイレに立っただろうか。宿のトイレは、コテージ風の部屋の外にある。
そのため、トイレに行く度に、たくさんの蚊を招くことになる。下痢と羽音との戦いは朝まで続いた。蚊帳のおかげで、あまり刺されはしなかったのがせめてもの救い。
結局、翌日も腹痛は収まらず、一日中、宿の部屋で過ごすことになる。
下痢の原因がバンビエンにあるわけではないが、この町を出ることにした。
バンビエンにいたらいつまでも下痢から抜け出せないような気がしたからだ。
宿を出る前、バスに乗り込む前、バスの休憩時間などで、入念にお腹の中のものを出し、何とかポーンサワンまで来ることができた。

●現地の病気は現地の薬で

幸運なことに、ポーンサワンの宿の近くには薬局があった。そこで腹痛を訴えると、どぎつい色の薬を処方された。
いやだなぁと思いつつも、服用するとみるみるうちに下痢が止まった。
いくら正露丸を飲んでも止まらなかったというのに。
現地の病は現地の薬がいいということなのだろうか。
体調が落ち着くと腹が減ってきた。そこで訪れたのが「この子をやる」という親父のいる食堂だった。

現地の薬


●14歳とは結婚できない

あるとき、親父もその妻もどこかへ行ってしまい、僕とその娘の2人きりになったことがあった。意外にも、彼女は話しかけてきた。
「何歳?」
と聞かれる。
「23歳だよ、君は?」
「14歳」
それだけ答えると、キッチンの奥にいってしまった。

親父が戻ってきて言う。
「お前とこの子はお似合いだよ」
「若すぎます。まだ14歳なんでしょう?」
僕が困惑した顔でそう答えると、
「ちょうどいいじゃないか。若いほうがいいだろう?」
実の娘を14歳で嫁がせようとするその感覚は、ここが日本であれば理解されないだろう。
でも彼は至極当たり前だといった風だった。

ポーンサワンからベトナムへ出発する日、食堂に寄ってみた。そこでもしつこく娘をやるというので、
「でも、娘さんはせっかく可愛く育っているので、もっといい男を見つけられたらどうですか?」
と提案してみた。
帰ってきたのは、意外な言葉だった。
「娘? この子は娘じゃなくて、ベトナムから稼ぎにきているんだよ」

ポーンサワンでは、たくさんの「地雷注意」の看板を見かけた。
その赤い看板をベトナム行きのバスから見つけたとき、何とも言えない気持ちがした。


地雷マークの説明

赤いMAGから左は危険ゾーン

海外へいく理由


私たちが孤児だったころ
 
 北京オリンピックが終わり、中国の“超”バブルが落ち着きを見せた頃、僕は上海を再訪した。
 上海は、今回で3度目。以前訪れたのは2006年だった。
 80年代、90年代などにその地を踏んだ、僕よりももっと年上の旅行者たちには遠く及ばないけれど、中国の(あるいは、「ある一つの街の」とも言えるだろうか)変化をひしひしと感じた。
 「孤児」「五体不満足者」「物乞い」を綺麗さっぱりとまでは言わないまでも、ほとんど見かけなくなった。
 2006年時、目抜き通りである南京路歩行街から南京東路を抜け、外灘(ワイタン)と呼ばれる昔の共同租界地域と黄浦江に沿う公園を繋ぐ歩行者トンネルは、「孤児」や「五体不満足者」たちの巣窟だった。
 それが“一掃”されていた。“一掃”という言葉が正しいか否かは神のみぞ知る所ではあるが、孤児が消え綺麗に整備されたそれを見た瞬間、その言葉が頭に浮かぶ。
 「一刻も早く上海を見てみたい」と思ったのには、2冊の本の影響がある。
 『私たちが孤児だったころ』(早川書房)と『龍─RON─』(集英社)だ。
 上海が世界各国(欧米列強、および日本など)にとって、いかに特別な場所であったかがよくわかる。
 ある意味では、上海は中国であって中国ではない。一つの「宇宙」がそこには存在している。
 それは歴史を体感するにはこれ以上ない街の姿なのだ。
 そんな理由から上海を見たいと思ったのだ。
 一掃された孤児はどこに消えたのか…。

 もちろん、中国当局が強制的に“見えないようにした”と考えるのが妥当ではあろう。
 だが、僕にはそれだけではないように思える。
 それは同時に、己の生活に直に繋がっていることでもあるのだ、と。

●ネパールの孤児、バングラデシュの孤児

 2008年、未だ政治的混乱下にあったネパールを訪れた。王制が終焉し、現在に続く暫定政権が統治していた。
 そこには上海では一掃されたはずの孤児が溢れていた。
 孤児たちは空腹をシンナーで紛らわし、寒さをしのぐために幾人かで身を寄せあうようにして道路の端で寝、通りかかる先進国から来たバックパッカーにっていた。
 もちろん、彼らがあの上海の孤児らだったわけではない。
 だが、僕には上海の孤児とこのネパールのカトマンズにいる孤児がリンクして見えた。
 それは、“私たちの”孤児なのだ。
 経済のしわ寄せがダイレクトに反映されるのは、孤児なのだ。
 バングラデシュのダッカの孤児たちはたくましかった。
 もちろん、彼らもお金がなく、毎日を空腹で過ごしているという意味ではカトマンズの孤児と変わらない。
 違うのは、彼らがお金のために「労働」を選んでいる(選ぶことができている)ことだった。
 彼らは通行人にバナナを売っていた。それもバックパッカー(旅行者)目当ての商売というわけではないようだ。同国の大人たちに売ってるのだ。
 これが、「バングラデシュの好景気と繋がっている話ではない」などと誰に言えようか。
 経済は孤児たちに直に繋がっているのだ。

●世界でいちばん幸せな国ブータンのひと

 ダッカからシリグリというインドの街へ向かうバスで、顔立ちが日本人によく似ているおばさんが3人いた。
 シリグリは、ネパール、バングラデシュ、ブータンなどへの中継都市として、比較的経済の盛んな地域である。
 話しかけると、どうやら彼らはティンプーからやってきたというブータン人らしかった。
 世界で一番幸福な国だと言われる、ブータン。

 彼らの着る服は、(かなり)みすぼらしいものだった。田舎の小学生が着ているアップリケが貼付けられような服であった。
 それでも、彼らは幸福だという。
 彼らが笑顔に溢れているとか、特別愛想がいいとか、そんな印象もまったく感じなかった。幸せなオーラに包まれているかと聞かれれば、ちょっと首を傾げたくなるくらいだ。
 それでも彼らは幸せだと言う。
 何が違うのか…。一言で表せば、「幸せの在処が根本的に私たちと異なる」とでも言おうか。お金に毒された杓子定規を持つ私たちには、理解しがたい聖域なのかもしれない。
 「その国の姿は、旅行者に表れる」と誰かが言ってた。であれば、日本の姿は世界の人びとから見て、どう映っているのか。
 「臭いものには蓋をしろ」というが、僕はそれには両手をあげて賛成することなどできない。
 臭いものは臭いのだ。
 どう巧妙に隠そうが、どこかにそのしわ寄せがいくだけなのだ。
 本質的なところから目を離してはいけないのだと、みな、重々承知しているとは思う。
 が、日本にいるとなかなかそのように感じながら生きていくのは難しい。
 真贋を見分ける目を持ち続けるためにはどうすればいいのか…。 海外というスイッチは、我々日本人にとって最も容易なもののように思う。