2012年4月6日金曜日
タイ人とセパタクロー
●気持ちはキャプテン翼
「あの、僕も一緒に蹴りたいんだけど…」
勇気を振り絞って、試合を仕切るお兄さんに声を掛ける。英語を解さないようで、困惑した表情をみせる。
「いやだからほら! わたし、それ、蹴る」
と、今度はジェスチャー付きで、セパタクローに参加したいという意思表示をする。
「お前、できるのか?」
そう問われたようだ。セパタクローのボールが投げ渡され、皆の視線が一気に集まる。彼らなりのセレクション(選抜試験)のようだ。僕の実力を見定めようとしているらしい。
ここで実力が認められれば、彼らに、すなわち本場タイのセパタクローに参加できるのだと意気込んだ。
ただ一筋縄ではいかなそうな雰囲気もあった。彼らのほとんどが、“かなりの上から目線”であったからだ。それは「お前みたいな余所者にボールが蹴れるはずもなかろう」というもの。
僕は、昔読んだキャプテン翼の最終巻を思い出していた。
主人公である大空翼が、中学生ながらも練習中の全日本代表に挑んでいくというエピソードがある。
最終的に奥寺康彦にそのドリブルは止められてしまったものの、実力が認められた翼は、例外的に全日本代表の練習に参加できることになった。
このときの翼の場合でも、初めはそこにいたほとんどの全日本代表選手の態度は“上から目線”だった。それを実力で覆したのである。
まさに、いまの僕と同じではないか! やれば、できる! 俺だって翼と同じ静岡県出身だ。交通事故でサッカーボールに助けられるという奇跡こそ経験していないが、小学校4年生のときにはリフティングが千回できていたくらいの「サッカーボールと友達指数」は持っているつもりだ。
(よし、やってやるぞ!)
けど、僕はどこか彼でらを、いやセパタクローをなめていたのかもしれない。サッカーをやっていたんだから、セパタクローなんてできて当然だ、と。だから邪魔になると思いつつも、カメラと財布やパスポートが入った鞄を手放さなかった。鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、駐車場に設営された簡易コートへと足を踏み出したのだ。
●バンコク・トンブリー駅周辺にて
チェンマイやマレーシアなどの主要都市へ向かう鉄道が行き交うバンコク中央駅(フワランポーン駅)とは趣を異にしたトンブリー駅は、旅行者の集うカオサンエリアのチャオプラヤ川の対岸に位置する。バンコク中央駅の雰囲気は、出会いや別れ、旅や出張だとかいった非日常的なものであるが、トンブリー駅のそれは生活感にあふれていた。
小ぶりでおもちゃのような改札と人々が行き交う生活道路と同じ目線のホーム。そのホームの屋根でできた日陰では、露天商が涼をとり、こどもたちがじゃれあう。カオサンエリアで目につく白人などの外国人の姿はほとんどない。
「TICKET」と書かれた窓口でカンチャナブリ行きの切符を求める。電車は一日に何本も出ていて、「時間を指定してほしい」と言われる。どの電車もたくさんの空きがあるようだ。わざわざ渡り舟に乗って対岸までやって来たが、翌日、つまり当日券でも全く問題なかった。
どこかの宿に置き忘れたタイのガイドブックで「ハイシーズンは電車に乗れないことも」と書いてあるのを見て、前売券を買いにきたのだが…。そういえば、そのガイドブックはかなり古びていた。過去の情報だったのかもしれない。
あっさりと切符が手に入り、することがなくなってしまった。空を見ると、日暮れまではまだ2時間以上はある。ふと、渡り舟で着いた波止場の近くに、市場のようなものがあったことを思い出す。
市場に着く。どうやら店仕舞いらしく、慌ただしく片付けをする人々の姿が目立つ。時計を見ると4時半を過ぎていた。
観光地化されていない市場の人々は、とても興味深い。何より彼らが外国人である僕に興味を持たないところがよい。観光地では、お金目当ての商売人がひっきりなしに声をかけてくるのが、海外旅行の常だからだ。
ぼんやり歩いていると市場の端まで来てしまった。陽は徐々に落ちてきている。
●セパタクローは足のバレーボール
初めに通ったときには車がたくさん止まっていた駐車場のいっかくでセパタクローをしている集団を見つけた。
古タイヤに錆び付いた鉄パイプをくくり付け、そこにボロボロのネットを掛けた簡易コートで汗を流す10名ほどの集団。一見すると少し怖くて近寄りがたい雰囲気を持つ彼ら。みな上半身は裸で、真っ黒に焼けている。よく見れば何となく、アットホームなものを感じる。それは彼らのなかに隆々とした腹筋を持つ若者がいれば、腹の出たおじさんもいたからだ。年齢など関係なく、そこらへんの仲間たちがふらっと集まったという感じが何とも言えず愛らしかった。
少し離れたところで彼らを眺める少し歳のいったおじさんの横で、しばらく見学させてもらうことにした。彼らは実に楽しそうだった。
何だか羨ましかった。旅に出てからというものの、その日その日に一緒になる人はいても、仲間と呼べる相手と時間を共にすることがなかったせいかもしれない。少し感傷的になっていた。今後いつまで旅をするかも決めていなかった僕は、急に不安にかられた。自分で選んだ道なのに…と、ひとり苦笑いをしてしまう。
●勇気を振り絞って声を掛けてみる
ひとり苦笑いをする僕を気の毒に思ったのか、隣にいたおじさんが声を掛けてきた。
「…で、お前さんはやらないのか?」
そう問われ、一度は首を振ったものの、そんな選択肢もあったのかと、声を上げそうになってしまった。仲間がいなくて落ち込むのなら、仲間に加わって、仲間を作ればいいだけではないか。とはいえ、なかなか声を掛ける勇気は出ない。とりあえず、少しだけ近くに寄って座ることにした。
そこは、ちょうどスマッシュされたボールが飛んでくる位置。思惑通り、ボールが飛んできたので、僕はいかにも参加したい風に積極的にボールを取ってあげる。でも、お礼すら返ってこない。
さっきのおじさんに目をやる。和やかな彼は僕を見つめ、小さく頷いた。彼の本意はわからないが、背中を押してもらった気持ちになる。
勇気を振り絞ってひとりに声を掛けた。すると、「この試合が終わるまでちょっと待って」と言われる。
10分くらいだろうか、その試合が終わるとボールを渡され、「お前、蹴れるのか? ちょっとやってみろ」とジェスチャー付きで言われる。
それは試験のようだった。デキるやつなら入れてやってもいいぞ、と。
僕はカメラと財布やパスポートが入った大事な鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、コートへと足を踏み出した。
1時間以上も見学していたので、何となくのルールはつかんでいた。
さっそく、僕は相手コートにサーブする。順調な滑り出しだ。最低レベルはクリアしたに違いない。
やはり僕を試しているのだろう、初めてなのに少し強いボールが返ってきた。だてに20年近くサッカーをしてないぜと、得意げに胸トラップでボールの勢いを殺す。うまくいった! ここからボールを上にあげて軽くスマッシュだ、と思った瞬間、場の空気が冷めたように感じた。相手は笑っている。どうしたのだろうか。
●サッカーとセパタクローは違う
「おまえ、サッカーだろ?」
え?
「だから、おまえサッカーはできるだろ?でもこれはセパタクローだ。胸は使っちゃいけないんだよ」
そうだったのか…。やってしまった。落第かとがっくり肩を落とす。鞄なんて持ちながらプレーする僕に、気分を害したのかもと不安になる。
腹の出たおじさんが近寄ってきて、「リフティングしてみろ」とボールを渡してくれる。ラストチャンス? リフティングだけなら得意だ。足先でボールを扱って見せる。それを見て彼らは「OK、一緒にやろう」と笑顔になる。
腹の出たおじさんは、レシーブがめちゃめちゃ上手くて、筋肉隆々の若者のスマッシュを何度も拾っていた。
彼はリフティングをする僕にパスをくれと言ってボールを受け取ると、リフティングをした。めちゃめちゃ下手だった。3〜5回しか続かない。そして僕にくしゃくしゃの笑顔を見せた。
「人はそれぞれ得意不得意がある」とでも言いたかったのだろうか。
その日はあたりが真っ暗になるまで彼らとセパタクローに講じた。僕はほとんど活躍できなかった。悔しかった。
彼らは毎日やっているから、明日もここに来いと言ってくれた。嬉しかった。だが翌日のカンチャナブリ行きのチケットを買ってしまっていた。また来るよと言って、僕は市場を後にした。
その後、タイを縦断し、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、ベトナム、カンボジアを周遊し、再びバンコクに戻ってきたのは1ヵ月以上後だった。
●見返してやろうとかではなくて…
道中で買ったセパタクローのボールで僕は毎朝練習した。彼らに教わったスマッシュも少しずつできるようになった。
バンコクについてから、チャイナタウンでセパタクロー用のシューズも買った。ナンヤンというブランドで、市場の彼らが「ほとんどのタイ人がこれを使っている」と言っていたものだ。350バーツもした(僕が泊まっていた宿はシングルで一泊80バーツ)。
万全を期して、市場(コート)に足を運ぶと彼らは大歓迎してくれ、「お前どこ行ってたんだよ!」と、親しみを込めて、頭を軽く叩かれた。
その日から僕はカメラも貴重品もそこらへんに置いて、毎日毎日夢中になってプレーした。
徐々にレシーブもスマッシュも様になってきて、得点できるようになっていった。
ある時、腹の出たおじさんが、一対一の勝負を挑んできた。勝負はほぼ互角だった。終盤、スコアは拮抗していた。
そんなとき、ボールがコートから外れて転がっていった。
拾いにいくと、そこには一番初めに隣に座っていた年を取ったおじさんがいた。満面に笑みをたたえて、頷いた。僕も頷き返し、グーサインを出した。
2011年9月12日月曜日
ルアンパバーン行きのスロウボート 前半
●日本人のよりは気持ちよい、か!?
バンコクで出会ったオージーは、おせっかいな奴だった。
やれ「タイ北部、ミャンマーとの国境付近の山間部は本当に美しいから、見るべきだネ」だの、「東南アジアは時計回りでいくべきだネ」だの、「メコン川のスローボートはやっぱり外せないネ」と能弁を垂れてくる。うっさいつーの。
しまいには、「僕の泊まってる宿にくれば? 安くていいトコだヨ」と誘ってくる。ぼ、ぼくとヤリたいのか!?
僕は、白人のでっかくてふにゃふにゃのちんこを想像した。ジャパニ(日本人)の小さくて固いそれのほうが痛いような気がする。よし、君の宿とやらを見せてもらおう。僕は彼の後をついていくことにした。
なんだか、彼の歩き方がぎこちない。も、もしや、もう勃起しているのか!? なんだか照れるじゃないか!
宿に到着するや否や、オージーは「ここで待ってろ」という。ははん、部屋を綺麗にしてくるんだな。
「OK! とりあえず、チェックインしちゃうよ」
一泊80バーツの割に汚くないその宿に泊まることにした。フロントの女の子がとても可愛いのだ。宿で飼っているらしい猫が、客のバックパックや椅子に座ると大きな声で叱るのだが、その姿がまさに天真爛漫といった様子で微笑ましい。ベッドシーツの洗濯や接客などを1人でこなす彼女を見ていると、バンコクという大都市の全てが素晴らしいように感じてくる。単純なものだ。
オージーは部屋から70ℓのどでかいバックパックと白黒のタイ地図を持ってきて、事細かにタイの説明をしてくれた。
そして、「残念だけど、僕はもう母国に帰らないと行けないんだ。君との夜はお預けだね」と意味深げなセリフを言い残し、彼は宿を出ていってしまった。
●大沢くんもびっくりの新事実発覚!!というわけで、僕はその後、タイ北部の山間部を訪れ、東南アジアを時計回りに周遊し、メコン川のスローボートに乗った。
つまり、彼の言いなりとなったのだ。あるいは、僕は彼と過ごせなかった甘美な夜の時間を、埋め合わせたかったのかもしれないな…なんてことは一切思っていない。単純にガイドブックを持っていなかったので、彼の助言に従うほかなかったのである。
このスローボートというのは、タイとラオスの国境の街フエイサイという町から世界遺産の街ルアンパバーンへいくというものだ。東南アジア周遊の定番らしく、スローボートは80人ほどの白人バックパッカーで溢れていた。日本人は8人くらいだった。
このボートはスローというだけあって、ほんとうにゆっくり進む。僕が日本から持ってきていた世界地図(東京と横浜が隣の村のように見える代物)で見ても、あぁ、けっこう離れているんだね、とわかる。
「日本人旅行者は群れる」という話をよく聞くが、スローボートの中では、色んな国が群れていた。船首のほうでは、誰が持ち込んだのか、ラジカセで爆音を流す大英帝国の若者どもがはしゃいでいた。ドイツの若者は、船の中央を陣取り、みな神妙な面持ちで、ドフトエフスキーだとかハルキムラカミを読んでいた。やれやれ。
僕は荷物置き場にスペースがあることを見つけ、ひとりで得意げに寝転がっていた。気分は都会から田舎へ引越し、他の生徒を達観する、『天然コケッコー』の大沢くんだ! さくっと寝て起きれば着いているだろうという魂胆。窮屈な椅子に座る奴らを小馬鹿にしたような態度で寝そべっていた。が、そううまくもいかなかった。
まず38歳のマサさん(日本人)というひとに見つかってしまう。彼はおせっかいにも、他の日本人を3名ほども引き連れてきた。マサさんは、おもむろにマリファナを吸い始める。彼はおせっかいにも、他の日本人3名にも配り、みんなで“お楽しみの時間”が始まってしまった。これではおちおち眠ってなんかいられない…。「ユウジロ君もどうだい?」お声がかかった。ほら見たことか! 僕は事の次第を説明した。
「マサさん、いやね、実は僕は退屈だから寝ることにしたんです。軽く寝て起きたら着くでしょうから…。気分は大沢君なんですよ。見て下さい、あの大英帝国のバカどもを。数時間後にルアンパバーンについてから、いくらでもばか騒ぎできるのに、こんな船でも楽しもうと躍起になってて…」というと、みんないっせいに僕を見て笑った。
え? え? もうみんなキマってるの? そんなに上物なんすか?いや、そうではないらしい。一通り笑い終えると、マサさんは言った。
「ユウジロ君、この船今日は着かないよ」
「??」話がつかめない。
「いやこの船スローボートだから、ルアンパバーンに着くのは明日のお昼過ぎだよ。今日は途中で停泊して、そこに泊まるんだ」
そうだったのか!? 「オージーはひとこともそんなこと言ってなかったっすよ! マジっすか、やだなー」
「いや、オージーのことはよくわかんないけど、そういうことだから、はい、どうぞ」
笑顔で手渡されたジョイントからは甘い香りが漂ってきた…。
気づくと、フランス人カップルも輪の中にいる。彼らも自前のものを僕らにくれる。フ、ラ。ン、ス、人、さ。す、が、「博」「愛」「主」「義」! ! !?
●川賊の襲来
次に気づいたときには、宿泊するらしい小さな村についていた。
するとたくさんの人間が船に乗り込んできた。僕は強盗の襲来かと思い焦った! 急いで自分のカバンを背負い、強盗の襲来に備える。
(お金は4ヵ所に分散してあるから、まあリスクは少ない。確か、ポケットの財布にしまったお金が一番少額だったはずだ…)
などと、強盗への支払いのシミュレーションをする。
(さすがにそれだけな訳ないと察するだろうから、右足の靴の裏に隠した300ドルは、見せ玉として渡してしまおう…)
強盗たちは、置いてあったバックパックを我先にと次々と背負っていく。こいつら、荷物狙いか…。と思いきや、どうやら様子がオカシイ。カバンを背負ったまま船の外で船客を待ち伏せしているのだ。しかもよく見ると彼らはみな小さな子供たちだった。
「プリーズ、トゥーダラー!」「プリーズ!」「オンリートゥー!」
大合唱が始まる。どうやら子供たちの小遣い稼ぎらしい。
荷物を奪われた白人や日本人バックパッカーたちは、みな一様に困り果てていた…。
2010年4月1日木曜日
微笑みの国、タイの“微笑み”のワケ
◎トゥクトゥクのおっさんの奇妙な行動
ピックアップトラックの荷台に乗った少年に突然、水をかけられた。彼は、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
4月13日、僕はスコータイからの夜行バスでチェンマイに着いた。
バックパックを背負って、遠距離バスターミナルに降り立つと、いつものように僕は、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。
「安宿なら、旧市街に行けばいくらでもある」と、意気揚々と旧市街に向かうように指示をした。
まだ旧市街には達していないところで、何の前触れもなく、トゥクトゥクは停まった。「降りて、ここからは歩いてくれ」と言う。
普段は、“微笑みを絶やさず”に、うざいほど最後まで旅行者につきまとう彼ら。そして、何とか宿のマージンを手に入れようと、あるいは、その後の旅行をアテンドさせて欲しいと買って出てくるはずなのに…
不思議に思ったが、料金も良心的だったこともあってか、「まぁいいか」という気持ちで、とぼとぼ歩き出すことにした。

◎タイ人の「世渡り上手力」
「政治的に不安だから旅行者は気をつけるべし」という声を良く聞く。しかし、僕の経験則から言って、気をつけるべきは、「日本に帰る時間」だけだ。
彼ら、タイ人の「世渡り上手力」は歴史的にも証明されている(第1次世界大戦や第2時世界対戦での彼らの列強に対する振る舞いを見ればよくわかる)通り、飛び抜けて高い。
だから、彼らは外国人旅行者を巻き込んだらどうなるかくらい心得ている。政治的要因で、日本人やその他外国人に危害を加えることは、ほとんど考えづらい。
ただし、こと「交通機関」に関してはそうはいかない。空港を占拠されれば、日本へ帰ることはできない。旅行の翌日に、日本で「重要な会議」を控えている人間は大いに気をつけるべきだ。
「日本にどうしても大事な会議があるから通してくださいな」と、お願いしようがお構いなし。微笑みを絶やさずに、「マイペンラ〜イ(問題ないよ)」と言われるだけで、日本へは帰れないだろう。
◎マイペンライが恐いワケ
旧市街に着くと、とんでもない状態になっていた。4月13日〜15日の旧正月に執り行われる、水掛祭り(ソンクラーン)のまっただ中だったのだ。中でもチェンマイのそれは有名で、日本でも知れ渡っている。
僕は今日がその日だと言うことをてっきり忘れて、何の用意もないまま、この地に降り立ってしまったのだ。
ソンクラーンでは、外国人旅行者もへったくれもない。とにかく水をかけまくる。こちらがどんなに高価なカメラを持ち、どんなに大きなバックパックを背負い、どんなに身振り手振りで許しを乞おうが彼らは微笑みながら、水を掛けてくる。20万円のカメラが再起不能になろうが、「マイペンライ」なのだ。
時には死人だって出る。高速で走るバイクに向かって、思い切りバケツの水をぶちまけるから、転倒事故が後を絶たないのだ。
実際に、僕もバイクで時速40キロを出して走っているところを、木の陰に隠れた少年に水をかけられ、あやうく転ぶところだった。それでも彼らは「マイペンライ」だ。
◎デジカメを守れ!
とにかく、デジタルカメラとパスポートと紙幣(2000ドル+10万円)だけは守ろうと、何重にもビニール袋を被せ、バックパックの奥底にしまい込んだ。
と同時に、後ろから水をかけられた。振り向くと、ピックアップトラックの荷台に乗った少年が、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
ぎりぎりのタイミングだったので、本当に危なかった。
何とか安宿に着いたが、そのときには全身水浸し状態。
あーあと思いながら、バックパックを開けて、最重要荷物が無事なことを確認すると、僕は、荷物を放り出して、目をつけておいた食堂に行った。全身濡れたままで…
ずぶ濡れの僕を見ても、全く驚かない店主。うまい食事。40℃近い日照り。そして、ビール。店の前では、水をかけあいまくる人たち。
そして店内にもその“騒ぎ”が飛び込んでくる。応戦して、お客も、手に持っていた、コップの水をぶちまける。
心の中で「マイペンライ」と呟きながら、僕は“水掛け主戦場”へと繰り出した。
ピックアップトラックの荷台に乗った少年に突然、水をかけられた。彼は、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
4月13日、僕はスコータイからの夜行バスでチェンマイに着いた。
バックパックを背負って、遠距離バスターミナルに降り立つと、いつものように僕は、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。
「安宿なら、旧市街に行けばいくらでもある」と、意気揚々と旧市街に向かうように指示をした。
まだ旧市街には達していないところで、何の前触れもなく、トゥクトゥクは停まった。「降りて、ここからは歩いてくれ」と言う。
普段は、“微笑みを絶やさず”に、うざいほど最後まで旅行者につきまとう彼ら。そして、何とか宿のマージンを手に入れようと、あるいは、その後の旅行をアテンドさせて欲しいと買って出てくるはずなのに…
不思議に思ったが、料金も良心的だったこともあってか、「まぁいいか」という気持ちで、とぼとぼ歩き出すことにした。

◎タイ人の「世渡り上手力」
「政治的に不安だから旅行者は気をつけるべし」という声を良く聞く。しかし、僕の経験則から言って、気をつけるべきは、「日本に帰る時間」だけだ。
彼ら、タイ人の「世渡り上手力」は歴史的にも証明されている(第1次世界大戦や第2時世界対戦での彼らの列強に対する振る舞いを見ればよくわかる)通り、飛び抜けて高い。
だから、彼らは外国人旅行者を巻き込んだらどうなるかくらい心得ている。政治的要因で、日本人やその他外国人に危害を加えることは、ほとんど考えづらい。
ただし、こと「交通機関」に関してはそうはいかない。空港を占拠されれば、日本へ帰ることはできない。旅行の翌日に、日本で「重要な会議」を控えている人間は大いに気をつけるべきだ。
「日本にどうしても大事な会議があるから通してくださいな」と、お願いしようがお構いなし。微笑みを絶やさずに、「マイペンラ〜イ(問題ないよ)」と言われるだけで、日本へは帰れないだろう。
◎マイペンライが恐いワケ
旧市街に着くと、とんでもない状態になっていた。4月13日〜15日の旧正月に執り行われる、水掛祭り(ソンクラーン)のまっただ中だったのだ。中でもチェンマイのそれは有名で、日本でも知れ渡っている。
僕は今日がその日だと言うことをてっきり忘れて、何の用意もないまま、この地に降り立ってしまったのだ。
ソンクラーンでは、外国人旅行者もへったくれもない。とにかく水をかけまくる。こちらがどんなに高価なカメラを持ち、どんなに大きなバックパックを背負い、どんなに身振り手振りで許しを乞おうが彼らは微笑みながら、水を掛けてくる。20万円のカメラが再起不能になろうが、「マイペンライ」なのだ。
時には死人だって出る。高速で走るバイクに向かって、思い切りバケツの水をぶちまけるから、転倒事故が後を絶たないのだ。
実際に、僕もバイクで時速40キロを出して走っているところを、木の陰に隠れた少年に水をかけられ、あやうく転ぶところだった。それでも彼らは「マイペンライ」だ。
◎デジカメを守れ!とにかく、デジタルカメラとパスポートと紙幣(2000ドル+10万円)だけは守ろうと、何重にもビニール袋を被せ、バックパックの奥底にしまい込んだ。
と同時に、後ろから水をかけられた。振り向くと、ピックアップトラックの荷台に乗った少年が、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
ぎりぎりのタイミングだったので、本当に危なかった。
何とか安宿に着いたが、そのときには全身水浸し状態。
あーあと思いながら、バックパックを開けて、最重要荷物が無事なことを確認すると、僕は、荷物を放り出して、目をつけておいた食堂に行った。全身濡れたままで…
ずぶ濡れの僕を見ても、全く驚かない店主。うまい食事。40℃近い日照り。そして、ビール。店の前では、水をかけあいまくる人たち。
そして店内にもその“騒ぎ”が飛び込んでくる。応戦して、お客も、手に持っていた、コップの水をぶちまける。
心の中で「マイペンライ」と呟きながら、僕は“水掛け主戦場”へと繰り出した。
2009年12月2日水曜日
カンチャナブリでの出来事
◎サムローのおっちゃん
チャオプラヤ川を船で渡った先にあるトンブリ駅から、2時間ほど電車に揺られると着くのがカンチャナブリだ。タイの4月の猛烈な日照りの中、駅を降りて、ゲストハウスを見つけるために、とぼとぼと歩き始める。電車から降りた外国人観光客は2、3人しかいなかったので、案の定サムロー(自転車タクシー)に乗ったおっちゃんは僕のところへきた。
「どこいく?乗りなよ。いい宿を知っているから」
バンコクの宿にあった古いロンリープラネットで目を付けておいた「ポンペン」という宿にしようかなと漠然と思っていたので、
「宿はもう決めてあるし、その宿までは遠くない。だから君の助けはいらないよ」と彼に言った。するとすかさず、宿の名前を聞いてきたので、僕は「ポンペンだ」と答えた。おっちゃんは笑顔になって、自分のきているTシャツを指差して、「ほら、お前が行きたいポンペンはここだろう。俺はスタッフだ。連れて行ってやるから早く乗りな」見ると、確かに彼のTシャツには、『PongPhen』とある。僕は、始めからそう言ってくれよなと思いながら、猛烈に暑い中を宿まで歩く必要がなくなった安堵感のままサムローに乗り込んだ。
◎カンチャナブリの宿
おっちゃんが、ぎこぎこと必死に漕ぐと、5分ほどで宿が集まる通りに着く。こじんまりとして、かといって田舎過ぎるわけでもなく、バンコクの次に訪れる町としては最適という感じ。ほのかにカオサンの陽気さが漂っていて、とてもいい。バックパッカーたちが、「明日もやることないけど、まぁいっかー」といった面持ちで、幸せそうな顔をしている。多分僕もしている。
宿に着く。しかし、いっこうにおっちゃんは僕を宿へ案内しない。おかしいなーと思いながら、自分でポンペンのフロントへ行く。敷地にプールが見える。宿の雰囲気はかなり素晴らしい。
「ごめんなさい、80バーツのシングルはいっぱいなのよ」フロントの女性に万遍の笑みで言われる。仕方がない。80バーツの部屋がありながら他の部屋に泊まって150バーツも払いたくなかったので、礼を言って他の宿へ移ることにした。
◎酷暑はヒトを熱しやすく冷めやすくする
ポンペンのスタッフであるおっちゃんにも礼を言って、隣の宿へ行こうとすると、腕をつかまれた。
「50バーツだ」
そうきたか。スタッフと思って、安心したのが間違いで、彼はただのサムローのおっちゃんだった。Tシャツもスタッフだから着ていたわけではなかった。
「さっきお金は?と聞いたら、ノープロブレム、スタッフ、スタッフ、オーケーカモーンと言ったじゃないか」
と言っても聞く耳なし。「わかった、お金は払うが、50バーツは法外な値段だ、5分しか乗っていないから10バーツ、いや20バーツでいいね」と言うと、おっちゃんは、これ見よがしに、汗をアピールし始め、こんなに汗をかかせて20バーツとは何さまのつもりだ、と凄んできた。それが騙すつもりだったのかというよりも、やり方があまり好きではなかったので、僕も負けじと、胸を張って威嚇した。そして彼に10バーツだけ右手に握らせて、「コップンカー!」と、強行突破!彼はそれでも追いかけてきてわぁわぁ叫んできた。「あーめんどくさいな」と思って20メートルくらい歩いたところで、振り返ると彼はそこから動いていなかった。
4月のタイはとても暑い。彼の気迫は2分と持たなかったようだ。
◎ビルマの空は美しい
結局、宿は近くにある「Jolly Frog BackPackers」というところで、シングル70バーツで泊まることができた。ここもロケーションが素晴らしくよく、日がな一日ほげーっと幸せにすごした。宿の庭は広く、芝生があり、そんなに高くない美味しいレストランもついている。クワイ川の桟橋まで降りることもでき、そこで泳げる。
川の対岸、つまり西側には、遠くにビルマ(ミャンマー)との国境の山々が連なる。毎日夕刻になると遠くにそびえるその山々には大きな雷雲が発生し、これでもかと稲光が光る。夕暮れのオレンジ色とその稲光が相まって、涙が出るほどきれいだった。
◎屋台での出来事
地元民で賑わう屋台でご飯を食べていたら、おじいさんに話しかけられた。中国人か?と聞かれたので、「イープン(日本人)です」と答えた。おじいさんは、遠いところを見るような目をして、「イープン」と小さな声でつぶやいた。そして、ぼそぼそと語り始めた。戦争時代のことを語っていることだけはわかった。でもタイ語なのでそれ以外はさっぱり。中国というフレーズだけ聞き取れた気がしたので、中国語で、中国?と聞くと中国語が少し話せることがわかった。そこで筆談を試みた。でも、彼は漢字はもうとうの昔に忘れたようで、首を横に振った。スコールが降りそうな気配がしてきたので、僕は一杯だけおごってもらったお酒の礼を言い宿に戻った。おじいさんは僕と話す間、ずっと遠いところを見る目をしたままだった。
チャオプラヤ川を船で渡った先にあるトンブリ駅から、2時間ほど電車に揺られると着くのがカンチャナブリだ。タイの4月の猛烈な日照りの中、駅を降りて、ゲストハウスを見つけるために、とぼとぼと歩き始める。電車から降りた外国人観光客は2、3人しかいなかったので、案の定サムロー(自転車タクシー)に乗ったおっちゃんは僕のところへきた。
「どこいく?乗りなよ。いい宿を知っているから」
バンコクの宿にあった古いロンリープラネットで目を付けておいた「ポンペン」という宿にしようかなと漠然と思っていたので、
「宿はもう決めてあるし、その宿までは遠くない。だから君の助けはいらないよ」と彼に言った。するとすかさず、宿の名前を聞いてきたので、僕は「ポンペンだ」と答えた。おっちゃんは笑顔になって、自分のきているTシャツを指差して、「ほら、お前が行きたいポンペンはここだろう。俺はスタッフだ。連れて行ってやるから早く乗りな」見ると、確かに彼のTシャツには、『PongPhen』とある。僕は、始めからそう言ってくれよなと思いながら、猛烈に暑い中を宿まで歩く必要がなくなった安堵感のままサムローに乗り込んだ。
◎カンチャナブリの宿

おっちゃんが、ぎこぎこと必死に漕ぐと、5分ほどで宿が集まる通りに着く。こじんまりとして、かといって田舎過ぎるわけでもなく、バンコクの次に訪れる町としては最適という感じ。ほのかにカオサンの陽気さが漂っていて、とてもいい。バックパッカーたちが、「明日もやることないけど、まぁいっかー」といった面持ちで、幸せそうな顔をしている。多分僕もしている。
宿に着く。しかし、いっこうにおっちゃんは僕を宿へ案内しない。おかしいなーと思いながら、自分でポンペンのフロントへ行く。敷地にプールが見える。宿の雰囲気はかなり素晴らしい。
「ごめんなさい、80バーツのシングルはいっぱいなのよ」フロントの女性に万遍の笑みで言われる。仕方がない。80バーツの部屋がありながら他の部屋に泊まって150バーツも払いたくなかったので、礼を言って他の宿へ移ることにした。
◎酷暑はヒトを熱しやすく冷めやすくする
ポンペンのスタッフであるおっちゃんにも礼を言って、隣の宿へ行こうとすると、腕をつかまれた。
「50バーツだ」
そうきたか。スタッフと思って、安心したのが間違いで、彼はただのサムローのおっちゃんだった。Tシャツもスタッフだから着ていたわけではなかった。
「さっきお金は?と聞いたら、ノープロブレム、スタッフ、スタッフ、オーケーカモーンと言ったじゃないか」
と言っても聞く耳なし。「わかった、お金は払うが、50バーツは法外な値段だ、5分しか乗っていないから10バーツ、いや20バーツでいいね」と言うと、おっちゃんは、これ見よがしに、汗をアピールし始め、こんなに汗をかかせて20バーツとは何さまのつもりだ、と凄んできた。それが騙すつもりだったのかというよりも、やり方があまり好きではなかったので、僕も負けじと、胸を張って威嚇した。そして彼に10バーツだけ右手に握らせて、「コップンカー!」と、強行突破!彼はそれでも追いかけてきてわぁわぁ叫んできた。「あーめんどくさいな」と思って20メートルくらい歩いたところで、振り返ると彼はそこから動いていなかった。
4月のタイはとても暑い。彼の気迫は2分と持たなかったようだ。
◎ビルマの空は美しい

結局、宿は近くにある「Jolly Frog BackPackers」というところで、シングル70バーツで泊まることができた。ここもロケーションが素晴らしくよく、日がな一日ほげーっと幸せにすごした。宿の庭は広く、芝生があり、そんなに高くない美味しいレストランもついている。クワイ川の桟橋まで降りることもでき、そこで泳げる。
川の対岸、つまり西側には、遠くにビルマ(ミャンマー)との国境の山々が連なる。毎日夕刻になると遠くにそびえるその山々には大きな雷雲が発生し、これでもかと稲光が光る。夕暮れのオレンジ色とその稲光が相まって、涙が出るほどきれいだった。
◎屋台での出来事

地元民で賑わう屋台でご飯を食べていたら、おじいさんに話しかけられた。中国人か?と聞かれたので、「イープン(日本人)です」と答えた。おじいさんは、遠いところを見るような目をして、「イープン」と小さな声でつぶやいた。そして、ぼそぼそと語り始めた。戦争時代のことを語っていることだけはわかった。でもタイ語なのでそれ以外はさっぱり。中国というフレーズだけ聞き取れた気がしたので、中国語で、中国?と聞くと中国語が少し話せることがわかった。そこで筆談を試みた。でも、彼は漢字はもうとうの昔に忘れたようで、首を横に振った。スコールが降りそうな気配がしてきたので、僕は一杯だけおごってもらったお酒の礼を言い宿に戻った。おじいさんは僕と話す間、ずっと遠いところを見る目をしたままだった。
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