2010年4月19日月曜日

自己責任と縄張り争い

◎リチャード

なぜか、リチャードは握手を求めてきた。
そして、心配する僕の言葉を制して、
「盗られたクレジットカードは止めたし、トラベラーズチェックと少しの現金も大きな問題ではないさ。パスポートは大使館に行けばいい。あとは彼女だけで何とかなるさ」
と言いながら、ソファーに腰掛け、その大きな両手で顔を覆い、空を仰ぎ、黙り込んだ。

これは、マレーシア・ペナン島のジョージタウンにある安宿、Love Lane Inn でのできことだ。



◎ティチャッ


「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ…」


どこからともなく、高い音が聞こえてきた。

ジョージダウンは、ペナンという周囲100km程度しかない島にあるにも拘らず、かなりの都会だ。その町の中心に位置している宿の軒先で、はっきりと耳にすることができるので、その音はそれなりの大きさだ。

Love Lane Innの宿主のおじさんに、これは何の音かと尋ねると、笑って壁を指差し「ティチャッ」と言った。目をやると、そこには、大小さまざまな無数のヤモリがいた。なるほど、確かにその中の何匹かが全身を震わせるようにして、鳴いているように見える。

読んでいた「地下室の手記」を置き、しばらくヤモリを観察した。

無秩序に壁に張り付いているように見えた彼らだったが、実は縄張りによって、独自の法律が存在していることに気付いた。

近くにきた蛾などの虫に近づいてはパクリと食べる彼ら。そんな中、獲物に気をとられのか、「自分の場所」から長い距離を移動した一匹がいた。縄張りを取られては堪らないとばかりに、すかさず、「そこ」を縄張りとする一匹が近づき、口でつつく。攻撃されたほうのヤモリは、「あ、ごめんごめん」とばかりにまた定位置に戻る。あるいは、縄張りを持つ側が圧倒的にサイズが小さい場合、追い出すことに失敗することも。口でつついたら、逆につつき返され、壁から落下する、そんなこともあった。

ヤモリの観察にも飽き、ドストエフスキーの“転換作”に戻り、タイガービールをひとくち、口に含もうとした。すると、突然一人の白人男性が宿から飛び出した。


◎フランス人の女の子

僕の向かいに座っていた、白人の女の子が「キャー」とか「うわぁー」とか、叫ぶ。

まさか、と思い、僕も白人男性の後を追う。二周りほど年齢が上に見受けられるその白人男性を追い抜き、Love Lane通りをひた走る。
「犯人」と思われる二人乗りのバイクは交差点まで行くと、右折。その3秒ほど後に、僕も交差点にたどり着き、右を見たが、既にその姿は、町の風景に溶け込んでしまっていた。探し出すことは不可能だった。


宿に戻ると、その白人の女の子は、「全てとられたのよ。私どうしたらいいのよ」と半狂乱になって、叫んでいた。

白人男性は、彼女を落ち着かせ、「君はどこから来たのか」、「何をとられたのか」 などを、効率よく聞き、一つずつ対処した。

事務手続きが済むと、白人男性は僕のところにきて
「僕はリチャード、オーストラリアからだ、君は何人だい?」と、初めて会った旅人同士がする一般的な挨拶をしながら、握手を求めてきた。
「あのフランス人の女の子は大丈夫だろうか…」
と不安げに僕が呟くと、リチャードは
「あとは彼女が何とかするさ。僕らにできることはもうこれ以上ないよ」
と言って、ソファーに座り込んだ。

それ以上何かを言えば、リチャードは“自己責任論”について、講釈を垂らしそうだったので、僕はもう口を開くのをやめた。

◎マレーシアという国

日本でも、マレーシアは多民族国家として有名だ。僕も中学だったか高校だったか忘れたが、社会の授業で習った記憶がある。ただ、「民族対立」というテーマでは、教わっていないように記憶している。

マレー系、華僑系、インド系が主な人種であるが、実際に来てみると、その文化的交流は盛んとは言いがたいものの、皆無ではない。

エルサレムなんかだと、通りの向こう側は100%「ユダヤ人」、こちら側は「パレスチナ人」と、はっきり区別されていたが、クアラルンプールでは、インド料理屋が並ぶ屋台村で、華僑がカレーを食べている姿は、珍しくはなかった。

だから僕は、その言葉にひどく驚いたことを、今でも鮮明に覚えている。

◎宿のおばさん

「もちろん、その犯人は黒かったんでしょ?」と、宿の“本当の主”である宿主の奥さんは、フランス人の女の子に聞く。警察に電話をするためだ。

「一瞬で、あまり見えなかったけど、たぶんそうだった気がするわ…」
と、自信なさげに、答えると、すかさず、“本当の主”は、
「ぜったいインド人の仕業だわ。あの、こん畜生、インド人め!!わたしたち華僑はいっつも彼らの犠牲者よ」と、半ば叫びながら警察に電話をしていた。

宿主のおじさんは、小さい声で、僕に「気をつけるんだぞ」と忠告した。

僕は、インド人に対する、その偏見の言葉を耳にしたとき、ひどく心がざわついた。

なんだか無性に哀しくもなった。マレーシアは、飯は旨い、物価も安い、治安も悪くはないし、ぼったくりも無いとは言いがたいけれど、そんなにひどくはないので、結構気に入っていた。だから、ここペナン島には長居するつもりでいた。でも、この事件で一気にその気持ちも冷めた。いや、事件にというよりも、彼らのインド人に対する誹謗中傷に、と言ったほうが正しい。

◎そして僕はタイへ行こうと決めた

道路に沿っている、この宿のテラスは、そんなに気を許していいところではない。

ななめ向かいには、売春宿はあるし(そこに立つ女の子は、時折、僕にウインクや手招きをした)、車やバイクも行き交う。

いくつかの旅人情報ノート(マラッカやクアラルンプールの安宿にあったものだと記憶する)で、ジョージタウンでの引ったくりや置き引きに対する注意書も見たことがあった。

リチャードの言うとおり、確かに“自己責任”と言われても仕方のないところだ。

それを、ここの宿主たちは、一様にインド人を貶した。犯人を憎むのではなく、インド人を憎んでいるかのごとく。

僕は、宿の2階にあるドミトリー部屋に戻り、物思いにふけっていた。
すると、またあの「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ」という鳴き声が聞こえてきた。
窓から差し込む月の明かりに照らされた壁を見上げると、そこにも無数のヤモリがいた。

彼らは、相変わらず、縄張り争いをしていた。

2010年4月1日木曜日

微笑みの国、タイの“微笑み”のワケ

◎トゥクトゥクのおっさんの奇妙な行動

ピックアップトラックの荷台に乗った少年に突然、水をかけられた。彼は、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…

4月13日、僕はスコータイからの夜行バスでチェンマイに着いた。
バックパックを背負って、遠距離バスターミナルに降り立つと、いつものように僕は、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。
「安宿なら、旧市街に行けばいくらでもある」と、意気揚々と旧市街に向かうように指示をした。

まだ旧市街には達していないところで、何の前触れもなく、トゥクトゥクは停まった。「降りて、ここからは歩いてくれ」と言う。
普段は、“微笑みを絶やさず”に、うざいほど最後まで旅行者につきまとう彼ら。そして、何とか宿のマージンを手に入れようと、あるいは、その後の旅行をアテンドさせて欲しいと買って出てくるはずなのに…
不思議に思ったが、料金も良心的だったこともあってか、「まぁいいか」という気持ちで、とぼとぼ歩き出すことにした。





◎タイ人の「世渡り上手力」
「政治的に不安だから旅行者は気をつけるべし」という声を良く聞く。しかし、僕の経験則から言って、気をつけるべきは、「日本に帰る時間」だけだ。
彼ら、タイ人の「世渡り上手力」は歴史的にも証明されている(第1次世界大戦や第2時世界対戦での彼らの列強に対する振る舞いを見ればよくわかる)通り、飛び抜けて高い。


だから、彼らは外国人旅行者を巻き込んだらどうなるかくらい心得ている。政治的要因で、日本人やその他外国人に危害を加えることは、ほとんど考えづらい。

ただし、こと「交通機関」に関してはそうはいかない。空港を占拠されれば、日本へ帰ることはできない。旅行の翌日に、日本で「重要な会議」を控えている人間は大いに気をつけるべきだ。
「日本にどうしても大事な会議があるから通してくださいな」と、お願いしようがお構いなし。微笑みを絶やさずに、「マイペンラ〜イ(問題ないよ)」と言われるだけで、日本へは帰れないだろう。

◎マイペンライが恐いワケ
旧市街に着くと、とんでもない状態になっていた。4月13日〜15日の旧正月に執り行われる、水掛祭り(ソンクラーン)のまっただ中だったのだ。中でもチェンマイのそれは有名で、日本でも知れ渡っている。
僕は今日がその日だと言うことをてっきり忘れて、何の用意もないまま、この地に降り立ってしまったのだ。

ソンクラーンでは、外国人旅行者もへったくれもない。とにかく水をかけまくる。こちらがどんなに高価なカメラを持ち、どんなに大きなバックパックを背負い、どんなに身振り手振りで許しを乞おうが彼らは微笑みながら、水を掛けてくる。20万円のカメラが再起不能になろうが、「マイペンライ」なのだ。

時には死人だって出る。高速で走るバイクに向かって、思い切りバケツの水をぶちまけるから、転倒事故が後を絶たないのだ。
実際に、僕もバイクで時速40キロを出して走っているところを、木の陰に隠れた少年に水をかけられ、あやうく転ぶところだった。それでも彼らは「マイペンライ」だ。



◎デジカメを守れ!
とにかく、デジタルカメラとパスポートと紙幣(2000ドル+10万円)だけは守ろうと、何重にもビニール袋を被せ、バックパックの奥底にしまい込んだ。
と同時に、後ろから水をかけられた。振り向くと、ピックアップトラックの荷台に乗った少年が、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
ぎりぎりのタイミングだったので、本当に危なかった。


何とか安宿に着いたが、そのときには全身水浸し状態。
あーあと思いながら、バックパックを開けて、最重要荷物が無事なことを確認すると、僕は、荷物を放り出して、目をつけておいた食堂に行った。全身濡れたままで…

ずぶ濡れの僕を見ても、全く驚かない店主。うまい食事。40℃近い日照り。そして、ビール。店の前では、水をかけあいまくる人たち。
そして店内にもその“騒ぎ”が飛び込んでくる。応戦して、お客も、手に持っていた、コップの水をぶちまける。
心の中で「マイペンライ」と呟きながら、僕は“水掛け主戦場”へと繰り出した。