2011年5月20日金曜日

◇初めての海外一人旅 〜ヨーロッパ サッカー編その2前半〜

●カンプノウでロナウジーニョを見なくとも

ハンブルグで「高原くん」じゃなかった…「高原さん」からサインをもらうことができた日からおよそ10日後。僕はスペインのバルセロナにいた。

バルセロナでカンプノウに行かなかったら、どうしてわざわざスペインくんだりまで来たのかわからない。
なんてことはなく、バルセロナはそれはもう魅力的な街で、ロナウジーニョを見なくてもじゅうぶん素晴らしかった。
たとえばガウディ。バルセロナに足を踏み入れるまで、彼のことなんて全く知らなかった。そんな僕は帰国後、サグラダ・ファミリアについて、カサ・ミラについて、グエル公園について、色んな人に熱く語った。
「サグラダファミリアってね、グエル公園の丘のてっぺんから見えるんだけど、その風景がハンパないわけ。特に夕暮れには恐れ入ったよ。さすがガウディ、夕暮れまで考えて建築してたんだ、僕にはそれが手に取るようにわかったのさ」
グエル公園では観光客がごった返していて、初めての一人旅(当時19歳の大学生)の終盤だった僕はすごくさびしかった。ほんとうは日が暮れるまでいようと、15時頃に公園に行くも、1時間で出てきてしまった。だから、夕暮れなんて見ていない。
メシも美味かった。僕はパエリアについても、帰国後、能弁に語った。
「あれは日本で食べるパエリアとはひと味もふた味も違うね。魚介の旨味がギュッとご飯に染み込んでてさ! サフランの香りも日本のものと全然違うよ」
僕がスペインで食べたパエリアは、ご飯がベチャベチャで、日本のスペイン料理屋いやイタ飯屋のほうがよっぽど美味かった。
他にも、CAVAとよばれる発泡性のワインも市場で安く手に入った。値段の割に美味いと評判のこのワインも自慢したけど、たいして美味しくなかった、というかワイン自体ほとんど飲んだことがなかったからよくわからない。
どうでも良い事だが、ふらりと寄ったジョアン・ミロ博物館に感動して以来、ミロという作家のファンである。

●僕をほうっておいてくれ!

というわけで、何としても翌日のスペインリーグだけは見たかった。バルサの試合を見なければ、すべてが“ウソ”になってしまう気がしたから。余計なことに巻き込まれないために、僕は日が暮れるとすぐに宿に戻った。宿は16人部屋のドミトリー。明日に備え、早々に寝ようとする。しかし寝付けぬまま30分ほどするとマリファナを吸いまくるイギリス人4人組に両サイドをマークされた。彼らはどこからかサソリを手に入れ、「こいつを、どうやってイギリスに持っていくかを皆で相談しているんだ」と言ってきたので、苦笑いしといてやった。当時僕はタバコですら一度も吸ったことがなかった。ピュアなのだ。ビビりまくって、MDウォークマンの音量を最大にした。すると逆効果だったらしく、どんな音楽を聞いてんだよと絡まれる。あげくにオレのも聞けよと、大音量のHip Hopを押し付けられた。や、やめてくれー! 僕のMDには、さわやかな曲しかないんだぜ!
さらに向かい側のベッドでは、北欧系と見られる背がとんでもなく大きくて横幅もでっかい金髪のねーちゃんたちが、平気な顔をしてお着替えをする。おいおい、やめてくれ、レーパーバーンでの一夜を思い出してしまうではないか!
僕は居たたまれなくなって部屋を抜け出した。外に出て、新鮮な空気でも吸おうと階段を下る。すると声を掛けられた。

「ヘイ、ジャップ!」

足を止めると、ドレッドヘアでめちゃめちゃハイテンションのカナダ人がいた。目が泳いでいた。たぶんアガるやつでもキメているのだろう。(明日は、スペインリーグだぞ、逃げろ!)と心の中で叫ぶも、ビビった僕の足は動かなかった。「これくうか? めちゃめちゃ甘いぜ、グフフ」と言われ、これ(ただのリンゴ)をくったらヤバいと思い、断る。すると彼はじゃっかん不機嫌になった。「なんだノリの悪い奴め、じゃあこのあとオレらはクラブに繰り出すけど、おめーもいくか? いくよな?」これ以上不機嫌になられて、暴力でも振るわれたらたまったものじゃない。「もちろんさ」僕は咄嗟に答えてしまった。

●門前払いはもう慣れっこ。だけど…

約束の時間に彼らは現れなかった。これで明日のスペインリーグに照準をあわせられると、ホッとしたのも束の間、ふらふらのカナダ人3人組がやってきて、ほいじゃあいこうぜ、と地下鉄に乗り込む。地下鉄の案内表示を見ると最終列車とある。うわー最悪だ。カンプノウに行かなきゃ、バルセロナにいったと、誰にも言えなくなっちゃうのに…。
嫌々ながら彼らについていくと、巨大なクラブが目の前に現れた。人も500人はいるだろうか。ながーい行列に並び、30分ほどでようやくエントランスに到着。すると、同行していたカナダ人たちはみな通してもらうも、僕だけはSPに門前払いされてしまった。一人取り残さる。まわりを見渡すも、日本人はおろかアジア系の顔の人間は一人もいなかった。これは本格的にヤバいのではないか。その頃には、翌日のスペインリーグのことは頭の中から消えていた。(後半へつづく)

◇初めての海外一人旅 〜ヨーロッパ サッカー編〜

2005年2月。
シモンが誘ってくれた『甘い誘惑編』の一夜が明けた。
初めての一人旅の夜だというのに、ぐっすりと眠ることができた。シモンのおかげだろうか。今後、ポーランド人が粋がって、日本人の無垢な若者を舎弟にすることをおそれた僕は、「意外とビビってたんだろ?」と言ってやろうと思ったが、朝食の場にシモンの姿はなかった。まあ、今回は大目に見てあげよう。

この日、僕には明確な目標があった。それはドイツで活躍するサッカー選手の高原直泰のサインをゲットするというもの。「行けば会えると思うだって? 甘いんじゃない?」「もし会えたとして、サインしてもらえるなんて甘いんじゃない?」東京を出発する前、友人たちは、一様に僕の試算の甘さを指摘した。けど、僕には勝算があった。
白人美人との「甘美な一夜」を乗り切ることが出来たのだから、僕には不可能なんてない、なんてことは微塵も思ってない。
実は、高原は僕が通った小学校の隣の山田小学校だったのである。市の選抜チーム(三島市)で言えば、先輩後輩にあたり、当時の監督やコーチといった共通の話題もたくさん持っている。それを種とし、思い出話に花を咲かせ、サインをゲットするのだ。宿でハンブルガーSVの練習場所を聞き、列車に乗って向かうことにした。

道中、『キャプテン翼』の最終話を思い出していた。中学を卒業すると同時に、ブラジルへ渡る決心をした翼くんは、最後に奥寺が率いる日本選抜の練習場に、飛び込み勝負を挑むシーン。翼くんは実力を認められ、なんと日本選抜のグレミオFCとの試合にデビューしてしまうのだ。
ハンブルガーSVの練習場に着くと、フェンスは低く誰でも飛び込める状態だった。翼くんと同じようにグラウンドへ飛び込んで勝負を挑むというシュミレーションを頭の中でくり返した。

2月の北ヨーロッパはとんでもなく寒いうえに雨がパラパラと降っていた。なかなか出てこない選手たちにいら立ちをおぼえはじめた。と同時に、ある話を思い出した。「冬のヨーロッパの練習は寒さを理由に中止になることがある」というもの。急に不安になる。
さらに30分待って、とうとう僕は痺れを切らしてクラブハウスらしい建物へ「どうなってんだ、今日は練習やらないのか!?」と怒鳴り込んだ、いや怒鳴り込んではいない。ビビりながら、小さい声で「今日は練習って…」とだけいうと、困惑したスタッフの方は、たいへん親切に「いや、今日はAOLスタジアムでの練習日だよ、そこへ行けば見られるはずさ」と、教えてくれた。そこの練習場で待った2時間は、僕の人生にとって、決して無駄ではないと信じたい。

ハンブルガーSVのホームグラウンドAOLスタジアムは荘厳な面持ちで、僕を待ってくれていた。その姿を目にした時、「高原に会えなくても、いいや」と思った。いや、本音を言えば、この雰囲気だと会えそうにないなと思ったのだ。
先ほどの失敗をくり返さぬよう、スタジアムに着くとすぐにスタッフへ尋ねた。「今日は、あれですよね、確か練習日だって聞きましたけど」
「そうだよ、あっちから入れるからどうぞ」
中にスコスコ入っていくと、練習見学者たちが15人ほどいた。その中に、日本人のおばさんがいて、僕の姿に気づくと話しかけてきた。
「あら、新顔ね。高原くんを見に来たのね」
「そうです、サインをもらいたいなーと思ってきました」
「そう、頑張ってね。ただ今日はスタジアム練習だから厳しいかもしれないわ」
落胆する僕を励ますことなしに、彼女は見学に戻っていった。
落胆するも、僕は心を持ち直す。
(いやいや、そうは言っても僕には高原「くん」との共通の話題を持っているのだよ)と、一人ほくそ笑む。ざまあみろ、おばさん!!
きっとそのおばさんは、現地ジャーナリストかライターでもやっているのだろう。素人に毛が生えたような人でも、海外だと現地にいさえすれば、それなりにルポルタージュとか記事とか書けてしまうと聞いたことがある。取材や選手との接触が容易なのだとか。
おばさん、その程度ならオレのほうが熱い会話が出来るぜ。

しかし困ったことに、続々と集まる選手たちにも拘らず、高原は姿を見せない。
とりあえず、ここはトイレにいって落ち着こうと、いったんスタジアムの外に出ると1台の車が駐車場に滑り込んできた。目を凝らすと、なんと高原だ!
一瞬で緊張感が高まる。頭の中で高原「くん」と共通の話題のおさらいをしながら、僕は駆け寄る。高原は遅刻らしく、急ぎ足でスタジアムへと向かっていく。「や、やまだ小学校、い、いやちがう、その…」なかなか声を掛けられないまま、ドンドン高原の姿が小さくなる。プライドを捨てるしかない。
「高原“さん”! サ、サイン下さい!」
高原は振り向くと、「いいよー日本から来たの?」とサインをくれた。
「ちょっとね、寝坊していそいでいるから、じゃあね」と踵を返したので、
「や、山田、じゃなくって…、あの、写真とらせてください!」
「OK」とかっこ良くポーズしてくれた。

こうして、僕はヨーロッパのサッカーとの初コンタクトに成功したのである。次号は、カンプノウでのバルセロナの試合をお伝えしたい。

干渉に関する考察

そう、あれはダハブにいた時のことだった。その少女たちは僕に蔑むような目線を送ってきた。彼女たちは一様に何かを言ってきたが、アラビア語なのでまったく理解できなかった。
僕は戸惑いを感じた。彼女たちの立場からだと、僕の行動に共感を覚えてもいいはずなのだ。にもかかわらず、馬鹿にしたかのような笑いは途絶えることがなかった。

◆婚活女子はダハブに行くとよいと思う
ダハブの街はエジプトにある。首都カイロからおよそ8時間で、モーセの十戒で有名なシナイ山のあるシナイ半島の東南部に位置する。バックパッカーにはとても有名な場所である。その理由は明白で、「一泊200円の安い宿」、「1000円払えばおつりが返ってくる、ロケーション最高のうまいレストラン(ビール付)」、「アカバ湾(紅海)という世界でも有数のダイビングスポットに面していて、格安で潜ることができる」、そして、ここには「恋」がある。
(※一般的な旅のルートとして、エジプトから北上し、ヨルダン、シリア、イスラエル、レバノンを通り、トルコに抜けるというものがある。一人旅の女の子は、「あこがれの中東」と嬉々としてカイロに入国するも、すぐさまこの国の男たちの執拗な誘いにうんざりするようだ。彼女たちはエジプト観光のハイライトである内陸部では気丈に振る舞うも、エジプト最後の地ダハブまでくるといささか緊張の糸が切れるようである。ダハブの居心地の良い空気感に心をほだされると、「あぁ、この先は男性と旅したほうがラクだなー」と無意識のうちにパートナーを探し始める。さらに、そんな噂を聞きつけた男もわんさか寄ってくる。ダハブが恋の街と呼ばれる理由がこれで、婚活だとか恋活だとか言っている人は、ぜひダハブに行くと良い。下手なセラピーよりよほど恋に効くはずだ)

そんな旅情あふれるダハブだが、この街に到着してすぐにあることに気づいた。泊まる宿から30mほどのところにある建物がボロボロに崩れている。2年前に20人以上が犠牲となった爆破テロがあったらしいのだ。

◆インドからエジプトへ飛んだ100の理由
ユーラシア大陸を横断中の僕がインドから直接エジプトに飛んだ理由はだいたい100個くらいあって、1つ目は、僕がインドのデリーにいる時に、テロの予告があったことにある。よりにもよって、僕が泊まるメインバザールという地域が標的にされたらしく、身体検査をしないと宿に戻れないような状況だった。自分の中で、インドの次に訪れる予定だったパキスタンへの恐れが少しだけあって、それがこの出来事により一気に膨らんだ。2つ目は、イラン政府にある。パキスタンを抜けた後は、イランを通り、中央アジアへ行くつもりだった。しかし、いざパキスタンへと足を踏み出そうとした数週間前に、イランが軍事演習と称しミサイルを発射。イスラエルへの威嚇のためだと報道され、一気に緊張感が高まったように感じた。
パスポートに貼られたパキスタンのビザをぼんやりと眺め、泣く泣く心の中でそれを破いた。3つ目から100個目までの理由は語るほどのことではない。要は「めんどくさかった」のと、「ビビった」ので98%を占める。

エジプトへ来ると平和で、それはもう至極安心したものだ。
世間で言われているような、中東情報はあてにならないのかもしれないなと感じ始めていたころ、先のダハブの爆破テロの現場に出合ったのである。もう心の動きは二転三転どころか、もみくちゃである。何が正しい情報で、何が正しくないのか全くわからず、混乱状態である。これは良くない兆候で、人間は混乱に慣れてしまうと思考が麻痺してしまうらしい。あの香田証生さんも、僕が訪れる1カ月前のイスラエルでゴム銃にあたり失明した名もなき若者も、みんな色んな出来事が一転二転三転四転し、混乱に慣れてしまったのだろう。1つだけ正しいのは、平和にも危険にも頭に「絶対」がつくことはないことだ。
さて、思考停止の状態で、僕はダハブの天国のような幸せな日々を送る。朝起きて、シュノーケリングをし、昼は海を眺めながらアクセサリーを作り、ときにダイビングのライセンスを取得し、夜はうまい飯とビールを飲み、夜中には麻雀に興じた。(ダハブにはなぜか麻雀があった)
平和な日々は続くかのように思えた。いや、実際続いていたし、僕がエジプトにいる間には何も問題は起こらなかった。でも、僕の心の平和は徐々に崩れていた。この平和は真の平和ではないと。

◆僕はエジプトの少女に干渉すべきか
先にも言ったが、ダハブには雰囲気の良いレストランが海沿いに並んでいて、僕は頻繁に何時間もそこで寛いだ。クッションに寄りかかり、たまに気が向けば、目の前に広がる珊瑚礁へ飛び込む。
そんなことをしていると、いつも8歳前後の女の子たちが10人ほどで現れた。アクセサリーを売りにくるのだ。レストランにいると、昼だろうと夜だろうと必ず現れる彼女たち。安易かも知れないが、学校にいっているのだろうかと心配してしまう。しかし、片言の英語を身につけ、立派に物売りとして頑張っている彼女たちの姿を見ていると、あるいは学校の教育は必要ないのかもしれないと感じる。
でも、平和の綻びは教育から生まれるとよく言われることで、どちらが正しいのか断定できない。ここでも僕は困惑してしまう。
よし、ここはひとつ、僕もアクセサリーを売ってみようと決意。彼女たちの目線に立てば何かわかるかもしれない。翌日、旅の間に作ってきた30個ほどのアクセサリーを携えて、雰囲気のよいレストランのすぐ横で露店売りをさせてもらうことにした。インドで買った妖しげな布を敷き、その上にアクセサリーを並べていく。物珍しそうに物色する幾人かの西洋人の相手をしながら、1時間ほどがたった。するとアクセサリー売りの女の子たちが、僕を見つけ駆け寄ってくる。
一様にみな蔑むような目線を送ってきて、僕のアクセサリーを手に取っては馬鹿にしてくる。冷笑が絶えない。あー嫌だな、やっぱり教育は必要なんじゃないかなと思っていると、一人の女の子が優しい声で僕に、
「これはいくらですか?」
と聞いてきた。あれ、と思い彼女と片言の英語で話す。「1ポンドだよ」と言うと、「?」という顔をしてくる。1ポンドは、彼女たちのものと同じ値段だ。彼女は「1ポンドも持っていないから買えない」と言う。
それならばと、「じゃあ、こうしよう。君の持っているそのアクセサリーと僕のアクセサリーを交換する、それでどうかな?」と提案すると、嬉しそうな顔でOKサインが出た。彼女は、僕のアクセサリーを受け取ると嬉しそうに走り去った。
彼女の後について、他の子たちもみな行ってしまった。僕は何となく手持ち無沙汰になってしまい、店仕舞いした。教育がどうだとかテロがどうだとか言う前に、いま目の前に笑顔を生み出すことが、大切なのではないかと悟った。
…かのように思えたが、その夜いつもと同じように、レストランでディナーを食べていると、アクセサリー売りの少女たちがやってきた。隣の西洋人が売り込みにあっているので、ぼんやり眺めていると、先ほどの少女が僕の売ったアクセサリーを二倍の値段で売っていた。商魂たくましい限りである。
ようやくわかった。何事もある程度はほうっておいても、それなりに上手くやるものだ。だから下手な口出しは余計な混乱を生み出すだけだと思う。中東の政治情勢も同じように、よそ者は干渉すべきではないのかもしれない。たまには、まじめなことを書いてみた。

ノロノロ運転、オロオロ地獄

●ノロノロ運転、オロオロ地獄

バスはゆっくりゆっくりゆっくり進んだ。
タイ北部の街メーサイと国境を挟むビルマ(ミャンマー)側の街タチレクから、目的地であるチャイントンまでの距離はおよそ150キロの道のり。
山間の未舗装の道で、使い古されたバスが唸りをあげて走る。その仰々しい音に反して時速は20キロといったところ。それでもスピードを出して、崖に転落されるよりずっとマシだと、自分を納得させバスの中でジッとこらえた。
続くのはひたすらカーブで、見えるのは非風光明媚な荒涼としたホコリ臭い山々のみ。5時間ほど経つと、ビルマ人かタイ人と思しき乗客たちが一斉にオロオロと吐き出した。オロオロする子供の背中をさすっていた親もつられてオロオロ。オロオロしながらも、子の背をさするのはさすが母は強し。いや、オロオロしているから強くはないなー、もうわけわからん。床を優雅に流れる嘔吐物のせいで前の席のお坊さんもオロオロ。どうやら日頃の苦行ではオロオロに勝てなかったようだ。
そもそも問題は出発して30分ほどのときあった、と僕は見ている。そこは未だ舗装された道だった。バス内には何となく小学生の遠足のような雰囲気があって、彼らは持ち込んだお菓子やらスープやらをばくばくとがっつり食っていたのである、そりゃ吐きますよ。
●賊の襲撃

「ぱーーーん」という銃声音の後、バスはとまってしまった。“ゲロまみれの30分”からおよそ1時間が経ち、事態がようやく収束に向かっていたときのことだった。ここは民主主義国家のビルマではなく、実際にはミャンマーという軍事国家だ。政情が不安定であるという予備知識を持つ僕は、完全に賊の襲撃だと思い、身を屈め、日本人だとバレないように顔を隠していると、乗客たちはみな順番に降りていく。ここで降ろされ、身ぐるみはがされるのかと僕もバスを降りる。と、必死にタイヤのパンクを直す汗まみれの運転手の姿があった。そう、ただのパンクだったのである。30分ほどでタイヤの応急措置は終わったけど、スペアタイヤが減ってしまったバスはさらなるノロノロ運転になった。およそ10時間ほどでようやくチャイントンに到着した。
●本題はここから

今回のはなしの本筋はバスでの顛末ではない。(覚えている人は一人すらいないかと思うが)2009年8月の「ぱる通信」にも書いた、このチャイントンの町を題材に選んだのは、停電のことが書きたいと思ったからである。
僕はチャイントンで泊まった宿で、次の日のトレッキングの予約をした。アテンドしてくれるそのおじさんは、なんと「早朝5時半に迎えにくる」と言う。「いくら何でもそれは早すぎるのではないか」と言っても頑として譲らない。「そんなにここから遠いところに行くのか」と聞くと、「いやそんなに遠くない」という。堂々巡りのやりとりが続くので、僕は諦め、次の日に備えて早々に寝ることに決め、部屋で読書をしていると、突然明かりがつかなくなった。
●停電発生! さてどうする?

停電である。宿の主人に聞くと、いつものことらしい。ちょっと待っててと言うと彼女は、敷地内にある奥の建物に行ってしまった。「やれやれ」と思って所在なげに待っていると、けたたましいエンジン音と共に、宿内の明かりが灯った。自家発電装置があるのである。
これで読書でもして過ごせると思いきや、戻ってきた彼女は、「自家発電は応急的なものだから、扇風機以外は絶対に使わないでね」とだけ残して部屋に籠ってしまた。そうか、夜は停電があるから朝早く行動するんだな、それはそれで合理的じゃないか、と少し感心してしまった。「郷にいては郷に従え」である。僕も予定通り早々に寝ることにした。日本も少しは見習うべきだとすら思える。
が、いかんせんこの自家発電の音が馬鹿でかくて眠れない。いやほんと、もう、工事現場の真横で寝るようなものである。2時間くらいしても、ぜんっぜん眠れないので、もう一度宿のおばさんのところへ行って消してもらうようにお願いすることにした。
部屋をノックし、しばらく待っていると、ガタッとドアが少しだけ開いて不機嫌そうなおばさんの顔が出てきたので事情を説明する。けれど、僕の目にはしっかりと映ってしまったのである。ドアのすき間の向こうで、電源がついているテレビの姿が。逆上する気にもなれず、「なんでもありません」とだけ告げて部屋に戻り、僕は濡らしたティッシュを耳につめて、寝ることにした。やがて、燃料が尽きたのか、自家発電は2時間ほどでパタリととまった。
静けさに包まれたにもかかわらず、僕の心はざわついてなかなか寝付けなかった。
やっぱり停電なんてないほうがいいに決まっている。“慣れ”に甘えてしまう人間は、停電しようがしまいが、甘えてしまうのだから。