2012年6月1日金曜日

ラオス・ポーンサワンの食堂


●東南アジアでよくあること

ラオスのポーンサワンという町にいる。
宿の近くにある食堂で夕食をとる。テレビにはサッカー中継が流れている。
どこの国だろうか、ヨーロッパのリーグのようだが、判然としない。ラオスの元・宗主国であるフランスのマイナーチームだろうか。ビアラオを飲みながら、いくぶん退屈なその試合を遠い目で眺める。
「どこかの惑星の電波を何とか拾っているかのような映像だなぁ」
粗い映像にそんなことを思う。
それだけ退屈であり、また、ゆえに幸せだったりするのだ。アジアはこうでなくてはならない。
日本ではなかなか得られないような多幸感のなか、食堂の親父は客足が途絶えたのをいいことに僕の隣に座って、宇宙からの映像の音量を上げる。彼も暇なのだろう。共に、サッカー観戦に興じる。
少しして、妻らしき女性が何かを叫んだ。萎縮する風ではなかったが、親父はテレビの音量を少しだけ小さくした。
僕に「やれやれ」といった表情を見せる。
それに応えるように、僕も肩をすくめる。
彼は、目線を宇宙からの放送に向けたまま、「どこから来た?」と聞いてきた。タイ語で「イープン」と答える。タイ語とラオ語は大阪弁と東北弁よりも似ている(個人的な主観)ので、通じたようだった。
すると、「この子を君にやろう」と隣のテーブルに座る女の子を指差した。
その類いの言葉を何度言われただろうか。東南アジアを廻る日本人なら誰でも一度や二度は耳にしたセリフ。特段珍しいことではない。
既にひと月ほどアジアをフラフラしている。
もうそんな言葉一つに心が躍るような旅行者ではない。
と思っていたけど…。

●やっぱり悪い気はしない

それまで下向き加減だった娘さんが、はにかんで見せた。その姿に、ついグッときてしまった。まったくもって悪い気はしない。
ポーンサワンは、巨大な石壺で有名なジャール平原という観光地の玄関口であるが、それ以外にはこれといった見所はない。
一つ前の滞在地バンビエンで下痢になって以来、ずっと体調が悪かったので、身近にあるその食堂に入り浸った。朝、起き抜けに食堂で甘い珈琲を飲み読書に耽る。日が傾き始めた夕方には、ビアラオを片手にサッカー中継を眺める。
主人に「こいつを君にやる」と毎度のように言われた。その度に、僕は笑って「大人になったら、ね」と応えた。


ジャール平原



●ルアンパバンからバンビエンへ

いささか観光地にすぎるルアンパバンを後にし、僕はバンビエンへと向かった。
バンビエンには、エメラルドグリーンの池や無数の鍾乳洞、水牛で溢れる川などがあった。
そのどれもが旅情をかき立ててくれたのだが、どこかで馴染めないところがあった。

レストランで食事をとっていたときのこと。
バンビエンのいたるところがそうであるように、そこのレストランも白人であふれかえっていた。
とても騒がしいので、食事を取ると早々にお会計を済まそうとした。すると店員から、「ジョイント買わないか」とマリファナを勧められた。
そう、ここバンビエンはそのための町だったのだ。
まったくそんな気分ではないので、お断りして宿に戻る。なんだか嫌な気分だった。

バンビエンの河畔


●バンビエンで下痢になる

その日の夜、下痢で一晩中身悶えた。15分に一度はトイレに立っただろうか。宿のトイレは、コテージ風の部屋の外にある。
そのため、トイレに行く度に、たくさんの蚊を招くことになる。下痢と羽音との戦いは朝まで続いた。蚊帳のおかげで、あまり刺されはしなかったのがせめてもの救い。
結局、翌日も腹痛は収まらず、一日中、宿の部屋で過ごすことになる。
下痢の原因がバンビエンにあるわけではないが、この町を出ることにした。
バンビエンにいたらいつまでも下痢から抜け出せないような気がしたからだ。
宿を出る前、バスに乗り込む前、バスの休憩時間などで、入念にお腹の中のものを出し、何とかポーンサワンまで来ることができた。

●現地の病気は現地の薬で

幸運なことに、ポーンサワンの宿の近くには薬局があった。そこで腹痛を訴えると、どぎつい色の薬を処方された。
いやだなぁと思いつつも、服用するとみるみるうちに下痢が止まった。
いくら正露丸を飲んでも止まらなかったというのに。
現地の病は現地の薬がいいということなのだろうか。
体調が落ち着くと腹が減ってきた。そこで訪れたのが「この子をやる」という親父のいる食堂だった。

現地の薬


●14歳とは結婚できない

あるとき、親父もその妻もどこかへ行ってしまい、僕とその娘の2人きりになったことがあった。意外にも、彼女は話しかけてきた。
「何歳?」
と聞かれる。
「23歳だよ、君は?」
「14歳」
それだけ答えると、キッチンの奥にいってしまった。

親父が戻ってきて言う。
「お前とこの子はお似合いだよ」
「若すぎます。まだ14歳なんでしょう?」
僕が困惑した顔でそう答えると、
「ちょうどいいじゃないか。若いほうがいいだろう?」
実の娘を14歳で嫁がせようとするその感覚は、ここが日本であれば理解されないだろう。
でも彼は至極当たり前だといった風だった。

ポーンサワンからベトナムへ出発する日、食堂に寄ってみた。そこでもしつこく娘をやるというので、
「でも、娘さんはせっかく可愛く育っているので、もっといい男を見つけられたらどうですか?」
と提案してみた。
帰ってきたのは、意外な言葉だった。
「娘? この子は娘じゃなくて、ベトナムから稼ぎにきているんだよ」

ポーンサワンでは、たくさんの「地雷注意」の看板を見かけた。
その赤い看板をベトナム行きのバスから見つけたとき、何とも言えない気持ちがした。


地雷マークの説明

赤いMAGから左は危険ゾーン

海外へいく理由


私たちが孤児だったころ
 
 北京オリンピックが終わり、中国の“超”バブルが落ち着きを見せた頃、僕は上海を再訪した。
 上海は、今回で3度目。以前訪れたのは2006年だった。
 80年代、90年代などにその地を踏んだ、僕よりももっと年上の旅行者たちには遠く及ばないけれど、中国の(あるいは、「ある一つの街の」とも言えるだろうか)変化をひしひしと感じた。
 「孤児」「五体不満足者」「物乞い」を綺麗さっぱりとまでは言わないまでも、ほとんど見かけなくなった。
 2006年時、目抜き通りである南京路歩行街から南京東路を抜け、外灘(ワイタン)と呼ばれる昔の共同租界地域と黄浦江に沿う公園を繋ぐ歩行者トンネルは、「孤児」や「五体不満足者」たちの巣窟だった。
 それが“一掃”されていた。“一掃”という言葉が正しいか否かは神のみぞ知る所ではあるが、孤児が消え綺麗に整備されたそれを見た瞬間、その言葉が頭に浮かぶ。
 「一刻も早く上海を見てみたい」と思ったのには、2冊の本の影響がある。
 『私たちが孤児だったころ』(早川書房)と『龍─RON─』(集英社)だ。
 上海が世界各国(欧米列強、および日本など)にとって、いかに特別な場所であったかがよくわかる。
 ある意味では、上海は中国であって中国ではない。一つの「宇宙」がそこには存在している。
 それは歴史を体感するにはこれ以上ない街の姿なのだ。
 そんな理由から上海を見たいと思ったのだ。
 一掃された孤児はどこに消えたのか…。

 もちろん、中国当局が強制的に“見えないようにした”と考えるのが妥当ではあろう。
 だが、僕にはそれだけではないように思える。
 それは同時に、己の生活に直に繋がっていることでもあるのだ、と。

●ネパールの孤児、バングラデシュの孤児

 2008年、未だ政治的混乱下にあったネパールを訪れた。王制が終焉し、現在に続く暫定政権が統治していた。
 そこには上海では一掃されたはずの孤児が溢れていた。
 孤児たちは空腹をシンナーで紛らわし、寒さをしのぐために幾人かで身を寄せあうようにして道路の端で寝、通りかかる先進国から来たバックパッカーにっていた。
 もちろん、彼らがあの上海の孤児らだったわけではない。
 だが、僕には上海の孤児とこのネパールのカトマンズにいる孤児がリンクして見えた。
 それは、“私たちの”孤児なのだ。
 経済のしわ寄せがダイレクトに反映されるのは、孤児なのだ。
 バングラデシュのダッカの孤児たちはたくましかった。
 もちろん、彼らもお金がなく、毎日を空腹で過ごしているという意味ではカトマンズの孤児と変わらない。
 違うのは、彼らがお金のために「労働」を選んでいる(選ぶことができている)ことだった。
 彼らは通行人にバナナを売っていた。それもバックパッカー(旅行者)目当ての商売というわけではないようだ。同国の大人たちに売ってるのだ。
 これが、「バングラデシュの好景気と繋がっている話ではない」などと誰に言えようか。
 経済は孤児たちに直に繋がっているのだ。

●世界でいちばん幸せな国ブータンのひと

 ダッカからシリグリというインドの街へ向かうバスで、顔立ちが日本人によく似ているおばさんが3人いた。
 シリグリは、ネパール、バングラデシュ、ブータンなどへの中継都市として、比較的経済の盛んな地域である。
 話しかけると、どうやら彼らはティンプーからやってきたというブータン人らしかった。
 世界で一番幸福な国だと言われる、ブータン。

 彼らの着る服は、(かなり)みすぼらしいものだった。田舎の小学生が着ているアップリケが貼付けられような服であった。
 それでも、彼らは幸福だという。
 彼らが笑顔に溢れているとか、特別愛想がいいとか、そんな印象もまったく感じなかった。幸せなオーラに包まれているかと聞かれれば、ちょっと首を傾げたくなるくらいだ。
 それでも彼らは幸せだと言う。
 何が違うのか…。一言で表せば、「幸せの在処が根本的に私たちと異なる」とでも言おうか。お金に毒された杓子定規を持つ私たちには、理解しがたい聖域なのかもしれない。
 「その国の姿は、旅行者に表れる」と誰かが言ってた。であれば、日本の姿は世界の人びとから見て、どう映っているのか。
 「臭いものには蓋をしろ」というが、僕はそれには両手をあげて賛成することなどできない。
 臭いものは臭いのだ。
 どう巧妙に隠そうが、どこかにそのしわ寄せがいくだけなのだ。
 本質的なところから目を離してはいけないのだと、みな、重々承知しているとは思う。
 が、日本にいるとなかなかそのように感じながら生きていくのは難しい。
 真贋を見分ける目を持ち続けるためにはどうすればいいのか…。 海外というスイッチは、我々日本人にとって最も容易なもののように思う。

2012年4月6日金曜日

タイ人とセパタクロー


●気持ちはキャプテン翼

「あの、僕も一緒に蹴りたいんだけど…」
勇気を振り絞って、試合を仕切るお兄さんに声を掛ける。英語を解さないようで、困惑した表情をみせる。
「いやだからほら! わたし、それ、蹴る」
と、今度はジェスチャー付きで、セパタクローに参加したいという意思表示をする。
「お前、できるのか?」
そう問われたようだ。セパタクローのボールが投げ渡され、皆の視線が一気に集まる。彼らなりのセレクション(選抜試験)のようだ。僕の実力を見定めようとしているらしい。
ここで実力が認められれば、彼らに、すなわち本場タイのセパタクローに参加できるのだと意気込んだ。
ただ一筋縄ではいかなそうな雰囲気もあった。彼らのほとんどが、“かなりの上から目線”であったからだ。それは「お前みたいな余所者にボールが蹴れるはずもなかろう」というもの。
僕は、昔読んだキャプテン翼の最終巻を思い出していた。
主人公である大空翼が、中学生ながらも練習中の全日本代表に挑んでいくというエピソードがある。
最終的に奥寺康彦にそのドリブルは止められてしまったものの、実力が認められた翼は、例外的に全日本代表の練習に参加できることになった。
このときの翼の場合でも、初めはそこにいたほとんどの全日本代表選手の態度は“上から目線”だった。それを実力で覆したのである。
まさに、いまの僕と同じではないか! やれば、できる! 俺だって翼と同じ静岡県出身だ。交通事故でサッカーボールに助けられるという奇跡こそ経験していないが、小学校4年生のときにはリフティングが千回できていたくらいの「サッカーボールと友達指数」は持っているつもりだ。
(よし、やってやるぞ!)
けど、僕はどこか彼でらを、いやセパタクローをなめていたのかもしれない。サッカーをやっていたんだから、セパタクローなんてできて当然だ、と。だから邪魔になると思いつつも、カメラと財布やパスポートが入った鞄を手放さなかった。鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、駐車場に設営された簡易コートへと足を踏み出したのだ。




●バンコク・トンブリー駅周辺にて

チェンマイやマレーシアなどの主要都市へ向かう鉄道が行き交うバンコク中央駅(フワランポーン駅)とは趣を異にしたトンブリー駅は、旅行者の集うカオサンエリアのチャオプラヤ川の対岸に位置する。バンコク中央駅の雰囲気は、出会いや別れ、旅や出張だとかいった非日常的なものであるが、トンブリー駅のそれは生活感にあふれていた。
小ぶりでおもちゃのような改札と人々が行き交う生活道路と同じ目線のホーム。そのホームの屋根でできた日陰では、露天商が涼をとり、こどもたちがじゃれあう。カオサンエリアで目につく白人などの外国人の姿はほとんどない。
「TICKET」と書かれた窓口でカンチャナブリ行きの切符を求める。電車は一日に何本も出ていて、「時間を指定してほしい」と言われる。どの電車もたくさんの空きがあるようだ。わざわざ渡り舟に乗って対岸までやって来たが、翌日、つまり当日券でも全く問題なかった。
どこかの宿に置き忘れたタイのガイドブックで「ハイシーズンは電車に乗れないことも」と書いてあるのを見て、前売券を買いにきたのだが…。そういえば、そのガイドブックはかなり古びていた。過去の情報だったのかもしれない。
あっさりと切符が手に入り、することがなくなってしまった。空を見ると、日暮れまではまだ2時間以上はある。ふと、渡り舟で着いた波止場の近くに、市場のようなものがあったことを思い出す。
市場に着く。どうやら店仕舞いらしく、慌ただしく片付けをする人々の姿が目立つ。時計を見ると4時半を過ぎていた。
観光地化されていない市場の人々は、とても興味深い。何より彼らが外国人である僕に興味を持たないところがよい。観光地では、お金目当ての商売人がひっきりなしに声をかけてくるのが、海外旅行の常だからだ。
ぼんやり歩いていると市場の端まで来てしまった。陽は徐々に落ちてきている。

●セパタクローは足のバレーボール

初めに通ったときには車がたくさん止まっていた駐車場のいっかくでセパタクローをしている集団を見つけた。
古タイヤに錆び付いた鉄パイプをくくり付け、そこにボロボロのネットを掛けた簡易コートで汗を流す10名ほどの集団。一見すると少し怖くて近寄りがたい雰囲気を持つ彼ら。みな上半身は裸で、真っ黒に焼けている。よく見れば何となく、アットホームなものを感じる。それは彼らのなかに隆々とした腹筋を持つ若者がいれば、腹の出たおじさんもいたからだ。年齢など関係なく、そこらへんの仲間たちがふらっと集まったという感じが何とも言えず愛らしかった。
少し離れたところで彼らを眺める少し歳のいったおじさんの横で、しばらく見学させてもらうことにした。彼らは実に楽しそうだった。
何だか羨ましかった。旅に出てからというものの、その日その日に一緒になる人はいても、仲間と呼べる相手と時間を共にすることがなかったせいかもしれない。少し感傷的になっていた。今後いつまで旅をするかも決めていなかった僕は、急に不安にかられた。自分で選んだ道なのに…と、ひとり苦笑いをしてしまう。

●勇気を振り絞って声を掛けてみる

ひとり苦笑いをする僕を気の毒に思ったのか、隣にいたおじさんが声を掛けてきた。
「…で、お前さんはやらないのか?」
そう問われ、一度は首を振ったものの、そんな選択肢もあったのかと、声を上げそうになってしまった。仲間がいなくて落ち込むのなら、仲間に加わって、仲間を作ればいいだけではないか。とはいえ、なかなか声を掛ける勇気は出ない。とりあえず、少しだけ近くに寄って座ることにした。
そこは、ちょうどスマッシュされたボールが飛んでくる位置。思惑通り、ボールが飛んできたので、僕はいかにも参加したい風に積極的にボールを取ってあげる。でも、お礼すら返ってこない。
さっきのおじさんに目をやる。和やかな彼は僕を見つめ、小さく頷いた。彼の本意はわからないが、背中を押してもらった気持ちになる。
勇気を振り絞ってひとりに声を掛けた。すると、「この試合が終わるまでちょっと待って」と言われる。
10分くらいだろうか、その試合が終わるとボールを渡され、「お前、蹴れるのか? ちょっとやってみろ」とジェスチャー付きで言われる。
それは試験のようだった。デキるやつなら入れてやってもいいぞ、と。
僕はカメラと財布やパスポートが入った大事な鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、コートへと足を踏み出した。
1時間以上も見学していたので、何となくのルールはつかんでいた。
さっそく、僕は相手コートにサーブする。順調な滑り出しだ。最低レベルはクリアしたに違いない。
やはり僕を試しているのだろう、初めてなのに少し強いボールが返ってきた。だてに20年近くサッカーをしてないぜと、得意げに胸トラップでボールの勢いを殺す。うまくいった! ここからボールを上にあげて軽くスマッシュだ、と思った瞬間、場の空気が冷めたように感じた。相手は笑っている。どうしたのだろうか。

●サッカーとセパタクローは違う

「おまえ、サッカーだろ?」
え?
「だから、おまえサッカーはできるだろ?でもこれはセパタクローだ。胸は使っちゃいけないんだよ」
そうだったのか…。やってしまった。落第かとがっくり肩を落とす。鞄なんて持ちながらプレーする僕に、気分を害したのかもと不安になる。
腹の出たおじさんが近寄ってきて、「リフティングしてみろ」とボールを渡してくれる。ラストチャンス? リフティングだけなら得意だ。足先でボールを扱って見せる。それを見て彼らは「OK、一緒にやろう」と笑顔になる。
腹の出たおじさんは、レシーブがめちゃめちゃ上手くて、筋肉隆々の若者のスマッシュを何度も拾っていた。
彼はリフティングをする僕にパスをくれと言ってボールを受け取ると、リフティングをした。めちゃめちゃ下手だった。3〜5回しか続かない。そして僕にくしゃくしゃの笑顔を見せた。
「人はそれぞれ得意不得意がある」とでも言いたかったのだろうか。
その日はあたりが真っ暗になるまで彼らとセパタクローに講じた。僕はほとんど活躍できなかった。悔しかった。
彼らは毎日やっているから、明日もここに来いと言ってくれた。嬉しかった。だが翌日のカンチャナブリ行きのチケットを買ってしまっていた。また来るよと言って、僕は市場を後にした。

その後、タイを縦断し、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、ベトナム、カンボジアを周遊し、再びバンコクに戻ってきたのは1ヵ月以上後だった。

●見返してやろうとかではなくて…

道中で買ったセパタクローのボールで僕は毎朝練習した。彼らに教わったスマッシュも少しずつできるようになった。
バンコクについてから、チャイナタウンでセパタクロー用のシューズも買った。ナンヤンというブランドで、市場の彼らが「ほとんどのタイ人がこれを使っている」と言っていたものだ。350バーツもした(僕が泊まっていた宿はシングルで一泊80バーツ)。
万全を期して、市場(コート)に足を運ぶと彼らは大歓迎してくれ、「お前どこ行ってたんだよ!」と、親しみを込めて、頭を軽く叩かれた。
その日から僕はカメラも貴重品もそこらへんに置いて、毎日毎日夢中になってプレーした。
徐々にレシーブもスマッシュも様になってきて、得点できるようになっていった。
ある時、腹の出たおじさんが、一対一の勝負を挑んできた。勝負はほぼ互角だった。終盤、スコアは拮抗していた。
そんなとき、ボールがコートから外れて転がっていった。
拾いにいくと、そこには一番初めに隣に座っていた年を取ったおじさんがいた。満面に笑みをたたえて、頷いた。僕も頷き返し、グーサインを出した。

2012年1月11日水曜日

ダッカのリキシャ


「どうして行ってくれないんだ」
身振り手振りで何度説明しようとしても、その男は一向にとりあってくれず、僕の乗ったリキシャは前に進むことをやめてしまった。
そうしているうちにも、前日に買っておいたインド行きのバスの発車時刻が迫ってくる。
バングラデシュでの滞在4日目のことだ。

◎ホテル・アルラザックへ

インド・コルカタからバングラデシュのダッカに向かうバスに乗り込んだのは早朝の6時だった。
そのときはまだ体の調子が良く、第2の都市であるチッタゴンやクルナ、ロングビーチで有名なコックスバザールなどへ思いを馳せていた。特に、ビルマ(ミャンマー)との国境付近を訪れた友人の話を聞く限りでは、他では得難い体験が待っているのは確実である。

まずはバングラデシュ旅の先達の残した記録を探るべく、ダッカの旧市街近く、ホテル・アルラザックを目指した。
この宿には「情報ノート」と呼ばれる旅人直筆のノートがあり、陸上交通では行かれない地区への移動手段であるロケットスチーマーの情報などが書かれている、とコルカタの「情報ノート」に書いてあったのだ。
ホテル・アルラザックから見たダッカの様子
◎次第に悪化する体

しかしどうも様子がおかしい。
インドとバングラデシュの国境でお腹の調子が悪いなぁと思って、トイレ(もちろんトイレと呼べないほどの代物だった…)に駆け込むと当然のように、シャーとお尻から水が流れ出る。そのトイレを皮切りに、どんどん体調は悪化していった。何度も漏らしそうになりながら、狭い座席にうずくまって必死に堪えた。

★☆☆★★☆☆★

ホテル・アルラザックへの道は、手書きの地図を見せても、「アルラジャック」「アレラザック」「アルレジャック」などいろんな発音を試してもまったく通じず、誰もわからない。
とにかく、バスターミナルから南へと向かうことだけはわかっていたので、コンパス片手に、「あっちへ向かってくれ」とだけ言い、リキシャに乗り込む。大通りを南下していくと、一度大きく東へ向かった。そのことで、何とか手書き地図と現在地が頭の中で一致する。めぼしいところで、降ろしてもらった。そこで、もう一度周りの人間(比較的インテリそうに見える人)に聞くと、「あぁ、そこのことか」と指差さした先に、ホテルがあった。
教えてくれた男性に、「そんなことより君は外国人だな、友達になろう」と言われたが、肛門の括約筋が壊れてしまいそうだったので失敬した。
インテリとリキシャマン

◎バングラデシュを脱出せよ

そこから3日の間、ほとんどホテルに滞在することになる。もはや軟禁状態だ。犯人はもちろん下痢。それに加え熱もあった。
3日目の朝、暑いのに寒く、だけれども熱い、という状態で目が覚め、ふと思う。バングラデシュに滞在していたのでは、一向に治らないのではないか、と。
いちどそう思うと、「病は気から」というわけではないが、はやめにこの国を出るべきだという考えが頭から離れなくなってしまう。
ホテル・アルラザックの一階にある評判の悪いレストラン(体調悪のため、ほとんど毎食ここへ行った、というか行かざるを得なかった)へ行き、英語のできる男が現れるのを待つ。というのも、ここで食事をしていると毎回、どこからともなく英語を話す男が話し掛けてくるからだ。
ものの、5分ほどで前夜と同じ男が現れる。
「昨日君が言った通り、僕らは友達さ、だからリキシャにバスターミナルまで連れて行ってくれるように頼んでくれないかな?」
そう言うと、親切にリキシャをつかまえてきてくれた。
そうして、翌日にインドへと脱出するためのバスチケットを手に入れることができた。

いざ、バスターミナルへ!
◎インドへ向けバスターミナルへ! のはずが…

僕を乗せたリキシャは比較的大きな道路との交差点にさしかかると、何の前触れもなく止まってしまった。理由はわからなかった。
ほんの10分ほど前に、リキシャマンである彼は自信に満ちた笑顔で、「バス停まで行きたい」と言う僕を迎えてくれたのだ。
リキシャ社会独自の縄張りでもあるのだろうか。だが、それならば初めからわかっていた話である。
他のリキシャに、どんどん追い越されていく。
僕は何とかバスターミナルまで行ってもらえるよう説得を試みたのだが、彼は困ったような表情を見せ、あげくにリキシャから降りてしまった。ここから先へは行けないのだ、と身振り手振りで説明してくる。

★☆☆★★☆☆★

ここから先は行けないとの一点張りで、埒があかない。次第に、事態はややこしくなる。好奇心旺盛なバングラデシュの男たちが集まりだしたのだ。
彼らに「放っておいてくれ」などとはもちろん言えず、見る間に20、いや30人に囲まれる。
ある人は、ただただ好奇のまなざしを向け、ある人は、我こそが裁判官だといった態度でもって介入してくる。
意外だったのは、彼らがみな自国(リキシャ)の味方だというわけではなかったことだ。僕の味方も少なくなかった。「どうしてお前はこっから先に行ってやらないんだ、この外国人が困っているじゃないか」と。
だが、リキシャの男は頑なだった。拗ねてだんまりを決め込む小学生のように、表情一つ変えなくなってしまった。
そのうちに、一台のリキシャが横付けしてきた。「どうした?」と聞いてくる。それが引き金となったようで、どこからやってきたのか、10台以上のリキシャが集まってきたのだ。どうやら本格的に面倒なことになってきたようだった。

リキシャの渋滞、いや、リキシャで渋滞
◎バングラデシュは未知の国ではないはず…

インドにいる旅人、いや、インドのコルカタにいる旅人にとって、バングラデシュとは、あるいはその首都ダッカとは、そんなに遠い存在ではない。
僕が訪れたのは2008年のこと。旅行人からバングラデシュのガイドブックが2002年に出ている。そのこともあって、かなりの日本人がその地を訪れている。かの地の「未知の国」という側面はかなり薄れてきているように思う。
先にも書いたが、「情報ノート」と呼ばれる、旅人直筆の旅の情報ノートが、インドに点在する日本人宿に置かれているが、そこにはバングラデシュ情報がかなり克明に記されてもいる。
少し古い書き込みには「サインを求められた」というものがあった。町を歩くと、外国人だというだけで何十人というベンガル人に囲まれ、さらにはサイン責めにあったという。
そんな話は前時代的だなぁと思ったものだ。いまさらそんなことが起きるものか…。
北上せよ!
調子の悪い体を奮い立たせ、倒れるようにリキシャに乗り込む。
あと10分でバスターミナルというところまできた。それがどういうわけか、さすがにサイン責めにあってはいないものの、20〜30人+10台のリキシャに囲まれてしまったのだ。

全員に、「わかった、また今度十二分に相手をしてあげるから、今日は見逃してください!」と20タカ(当時で約25円)ずつ渡したい気分だが、そんな元気もない。
初めに乗っていたリキシャマンに、バスターミナルまでの運賃を握らせる。
そして10台のリキシャのなかから一番、威勢が良くアウトローな雰囲気を持つ男を選び、最後の力を振り絞りリキシャに乗り込む。

北だ、とにかくこの道を向こうに向かってくれ! そう身振りで伝えると、彼は頼もしい足で、力強くペダルを漕ぎ出した。
見る見る、野次馬たちが遠くなっていく。
朦朧とする意識のなか、バスの発車時刻までにバスターミナルへたどり着くことだけを祈った。
長距離バスターミナルの前の様子