2012年6月1日金曜日

海外へいく理由


私たちが孤児だったころ
 
 北京オリンピックが終わり、中国の“超”バブルが落ち着きを見せた頃、僕は上海を再訪した。
 上海は、今回で3度目。以前訪れたのは2006年だった。
 80年代、90年代などにその地を踏んだ、僕よりももっと年上の旅行者たちには遠く及ばないけれど、中国の(あるいは、「ある一つの街の」とも言えるだろうか)変化をひしひしと感じた。
 「孤児」「五体不満足者」「物乞い」を綺麗さっぱりとまでは言わないまでも、ほとんど見かけなくなった。
 2006年時、目抜き通りである南京路歩行街から南京東路を抜け、外灘(ワイタン)と呼ばれる昔の共同租界地域と黄浦江に沿う公園を繋ぐ歩行者トンネルは、「孤児」や「五体不満足者」たちの巣窟だった。
 それが“一掃”されていた。“一掃”という言葉が正しいか否かは神のみぞ知る所ではあるが、孤児が消え綺麗に整備されたそれを見た瞬間、その言葉が頭に浮かぶ。
 「一刻も早く上海を見てみたい」と思ったのには、2冊の本の影響がある。
 『私たちが孤児だったころ』(早川書房)と『龍─RON─』(集英社)だ。
 上海が世界各国(欧米列強、および日本など)にとって、いかに特別な場所であったかがよくわかる。
 ある意味では、上海は中国であって中国ではない。一つの「宇宙」がそこには存在している。
 それは歴史を体感するにはこれ以上ない街の姿なのだ。
 そんな理由から上海を見たいと思ったのだ。
 一掃された孤児はどこに消えたのか…。

 もちろん、中国当局が強制的に“見えないようにした”と考えるのが妥当ではあろう。
 だが、僕にはそれだけではないように思える。
 それは同時に、己の生活に直に繋がっていることでもあるのだ、と。

●ネパールの孤児、バングラデシュの孤児

 2008年、未だ政治的混乱下にあったネパールを訪れた。王制が終焉し、現在に続く暫定政権が統治していた。
 そこには上海では一掃されたはずの孤児が溢れていた。
 孤児たちは空腹をシンナーで紛らわし、寒さをしのぐために幾人かで身を寄せあうようにして道路の端で寝、通りかかる先進国から来たバックパッカーにっていた。
 もちろん、彼らがあの上海の孤児らだったわけではない。
 だが、僕には上海の孤児とこのネパールのカトマンズにいる孤児がリンクして見えた。
 それは、“私たちの”孤児なのだ。
 経済のしわ寄せがダイレクトに反映されるのは、孤児なのだ。
 バングラデシュのダッカの孤児たちはたくましかった。
 もちろん、彼らもお金がなく、毎日を空腹で過ごしているという意味ではカトマンズの孤児と変わらない。
 違うのは、彼らがお金のために「労働」を選んでいる(選ぶことができている)ことだった。
 彼らは通行人にバナナを売っていた。それもバックパッカー(旅行者)目当ての商売というわけではないようだ。同国の大人たちに売ってるのだ。
 これが、「バングラデシュの好景気と繋がっている話ではない」などと誰に言えようか。
 経済は孤児たちに直に繋がっているのだ。

●世界でいちばん幸せな国ブータンのひと

 ダッカからシリグリというインドの街へ向かうバスで、顔立ちが日本人によく似ているおばさんが3人いた。
 シリグリは、ネパール、バングラデシュ、ブータンなどへの中継都市として、比較的経済の盛んな地域である。
 話しかけると、どうやら彼らはティンプーからやってきたというブータン人らしかった。
 世界で一番幸福な国だと言われる、ブータン。

 彼らの着る服は、(かなり)みすぼらしいものだった。田舎の小学生が着ているアップリケが貼付けられような服であった。
 それでも、彼らは幸福だという。
 彼らが笑顔に溢れているとか、特別愛想がいいとか、そんな印象もまったく感じなかった。幸せなオーラに包まれているかと聞かれれば、ちょっと首を傾げたくなるくらいだ。
 それでも彼らは幸せだと言う。
 何が違うのか…。一言で表せば、「幸せの在処が根本的に私たちと異なる」とでも言おうか。お金に毒された杓子定規を持つ私たちには、理解しがたい聖域なのかもしれない。
 「その国の姿は、旅行者に表れる」と誰かが言ってた。であれば、日本の姿は世界の人びとから見て、どう映っているのか。
 「臭いものには蓋をしろ」というが、僕はそれには両手をあげて賛成することなどできない。
 臭いものは臭いのだ。
 どう巧妙に隠そうが、どこかにそのしわ寄せがいくだけなのだ。
 本質的なところから目を離してはいけないのだと、みな、重々承知しているとは思う。
 が、日本にいるとなかなかそのように感じながら生きていくのは難しい。
 真贋を見分ける目を持ち続けるためにはどうすればいいのか…。 海外というスイッチは、我々日本人にとって最も容易なもののように思う。

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