2012年4月6日金曜日

タイ人とセパタクロー


●気持ちはキャプテン翼

「あの、僕も一緒に蹴りたいんだけど…」
勇気を振り絞って、試合を仕切るお兄さんに声を掛ける。英語を解さないようで、困惑した表情をみせる。
「いやだからほら! わたし、それ、蹴る」
と、今度はジェスチャー付きで、セパタクローに参加したいという意思表示をする。
「お前、できるのか?」
そう問われたようだ。セパタクローのボールが投げ渡され、皆の視線が一気に集まる。彼らなりのセレクション(選抜試験)のようだ。僕の実力を見定めようとしているらしい。
ここで実力が認められれば、彼らに、すなわち本場タイのセパタクローに参加できるのだと意気込んだ。
ただ一筋縄ではいかなそうな雰囲気もあった。彼らのほとんどが、“かなりの上から目線”であったからだ。それは「お前みたいな余所者にボールが蹴れるはずもなかろう」というもの。
僕は、昔読んだキャプテン翼の最終巻を思い出していた。
主人公である大空翼が、中学生ながらも練習中の全日本代表に挑んでいくというエピソードがある。
最終的に奥寺康彦にそのドリブルは止められてしまったものの、実力が認められた翼は、例外的に全日本代表の練習に参加できることになった。
このときの翼の場合でも、初めはそこにいたほとんどの全日本代表選手の態度は“上から目線”だった。それを実力で覆したのである。
まさに、いまの僕と同じではないか! やれば、できる! 俺だって翼と同じ静岡県出身だ。交通事故でサッカーボールに助けられるという奇跡こそ経験していないが、小学校4年生のときにはリフティングが千回できていたくらいの「サッカーボールと友達指数」は持っているつもりだ。
(よし、やってやるぞ!)
けど、僕はどこか彼でらを、いやセパタクローをなめていたのかもしれない。サッカーをやっていたんだから、セパタクローなんてできて当然だ、と。だから邪魔になると思いつつも、カメラと財布やパスポートが入った鞄を手放さなかった。鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、駐車場に設営された簡易コートへと足を踏み出したのだ。




●バンコク・トンブリー駅周辺にて

チェンマイやマレーシアなどの主要都市へ向かう鉄道が行き交うバンコク中央駅(フワランポーン駅)とは趣を異にしたトンブリー駅は、旅行者の集うカオサンエリアのチャオプラヤ川の対岸に位置する。バンコク中央駅の雰囲気は、出会いや別れ、旅や出張だとかいった非日常的なものであるが、トンブリー駅のそれは生活感にあふれていた。
小ぶりでおもちゃのような改札と人々が行き交う生活道路と同じ目線のホーム。そのホームの屋根でできた日陰では、露天商が涼をとり、こどもたちがじゃれあう。カオサンエリアで目につく白人などの外国人の姿はほとんどない。
「TICKET」と書かれた窓口でカンチャナブリ行きの切符を求める。電車は一日に何本も出ていて、「時間を指定してほしい」と言われる。どの電車もたくさんの空きがあるようだ。わざわざ渡り舟に乗って対岸までやって来たが、翌日、つまり当日券でも全く問題なかった。
どこかの宿に置き忘れたタイのガイドブックで「ハイシーズンは電車に乗れないことも」と書いてあるのを見て、前売券を買いにきたのだが…。そういえば、そのガイドブックはかなり古びていた。過去の情報だったのかもしれない。
あっさりと切符が手に入り、することがなくなってしまった。空を見ると、日暮れまではまだ2時間以上はある。ふと、渡り舟で着いた波止場の近くに、市場のようなものがあったことを思い出す。
市場に着く。どうやら店仕舞いらしく、慌ただしく片付けをする人々の姿が目立つ。時計を見ると4時半を過ぎていた。
観光地化されていない市場の人々は、とても興味深い。何より彼らが外国人である僕に興味を持たないところがよい。観光地では、お金目当ての商売人がひっきりなしに声をかけてくるのが、海外旅行の常だからだ。
ぼんやり歩いていると市場の端まで来てしまった。陽は徐々に落ちてきている。

●セパタクローは足のバレーボール

初めに通ったときには車がたくさん止まっていた駐車場のいっかくでセパタクローをしている集団を見つけた。
古タイヤに錆び付いた鉄パイプをくくり付け、そこにボロボロのネットを掛けた簡易コートで汗を流す10名ほどの集団。一見すると少し怖くて近寄りがたい雰囲気を持つ彼ら。みな上半身は裸で、真っ黒に焼けている。よく見れば何となく、アットホームなものを感じる。それは彼らのなかに隆々とした腹筋を持つ若者がいれば、腹の出たおじさんもいたからだ。年齢など関係なく、そこらへんの仲間たちがふらっと集まったという感じが何とも言えず愛らしかった。
少し離れたところで彼らを眺める少し歳のいったおじさんの横で、しばらく見学させてもらうことにした。彼らは実に楽しそうだった。
何だか羨ましかった。旅に出てからというものの、その日その日に一緒になる人はいても、仲間と呼べる相手と時間を共にすることがなかったせいかもしれない。少し感傷的になっていた。今後いつまで旅をするかも決めていなかった僕は、急に不安にかられた。自分で選んだ道なのに…と、ひとり苦笑いをしてしまう。

●勇気を振り絞って声を掛けてみる

ひとり苦笑いをする僕を気の毒に思ったのか、隣にいたおじさんが声を掛けてきた。
「…で、お前さんはやらないのか?」
そう問われ、一度は首を振ったものの、そんな選択肢もあったのかと、声を上げそうになってしまった。仲間がいなくて落ち込むのなら、仲間に加わって、仲間を作ればいいだけではないか。とはいえ、なかなか声を掛ける勇気は出ない。とりあえず、少しだけ近くに寄って座ることにした。
そこは、ちょうどスマッシュされたボールが飛んでくる位置。思惑通り、ボールが飛んできたので、僕はいかにも参加したい風に積極的にボールを取ってあげる。でも、お礼すら返ってこない。
さっきのおじさんに目をやる。和やかな彼は僕を見つめ、小さく頷いた。彼の本意はわからないが、背中を押してもらった気持ちになる。
勇気を振り絞ってひとりに声を掛けた。すると、「この試合が終わるまでちょっと待って」と言われる。
10分くらいだろうか、その試合が終わるとボールを渡され、「お前、蹴れるのか? ちょっとやってみろ」とジェスチャー付きで言われる。
それは試験のようだった。デキるやつなら入れてやってもいいぞ、と。
僕はカメラと財布やパスポートが入った大事な鞄を肩にかけたまま、ボールを拾って、コートへと足を踏み出した。
1時間以上も見学していたので、何となくのルールはつかんでいた。
さっそく、僕は相手コートにサーブする。順調な滑り出しだ。最低レベルはクリアしたに違いない。
やはり僕を試しているのだろう、初めてなのに少し強いボールが返ってきた。だてに20年近くサッカーをしてないぜと、得意げに胸トラップでボールの勢いを殺す。うまくいった! ここからボールを上にあげて軽くスマッシュだ、と思った瞬間、場の空気が冷めたように感じた。相手は笑っている。どうしたのだろうか。

●サッカーとセパタクローは違う

「おまえ、サッカーだろ?」
え?
「だから、おまえサッカーはできるだろ?でもこれはセパタクローだ。胸は使っちゃいけないんだよ」
そうだったのか…。やってしまった。落第かとがっくり肩を落とす。鞄なんて持ちながらプレーする僕に、気分を害したのかもと不安になる。
腹の出たおじさんが近寄ってきて、「リフティングしてみろ」とボールを渡してくれる。ラストチャンス? リフティングだけなら得意だ。足先でボールを扱って見せる。それを見て彼らは「OK、一緒にやろう」と笑顔になる。
腹の出たおじさんは、レシーブがめちゃめちゃ上手くて、筋肉隆々の若者のスマッシュを何度も拾っていた。
彼はリフティングをする僕にパスをくれと言ってボールを受け取ると、リフティングをした。めちゃめちゃ下手だった。3〜5回しか続かない。そして僕にくしゃくしゃの笑顔を見せた。
「人はそれぞれ得意不得意がある」とでも言いたかったのだろうか。
その日はあたりが真っ暗になるまで彼らとセパタクローに講じた。僕はほとんど活躍できなかった。悔しかった。
彼らは毎日やっているから、明日もここに来いと言ってくれた。嬉しかった。だが翌日のカンチャナブリ行きのチケットを買ってしまっていた。また来るよと言って、僕は市場を後にした。

その後、タイを縦断し、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、ベトナム、カンボジアを周遊し、再びバンコクに戻ってきたのは1ヵ月以上後だった。

●見返してやろうとかではなくて…

道中で買ったセパタクローのボールで僕は毎朝練習した。彼らに教わったスマッシュも少しずつできるようになった。
バンコクについてから、チャイナタウンでセパタクロー用のシューズも買った。ナンヤンというブランドで、市場の彼らが「ほとんどのタイ人がこれを使っている」と言っていたものだ。350バーツもした(僕が泊まっていた宿はシングルで一泊80バーツ)。
万全を期して、市場(コート)に足を運ぶと彼らは大歓迎してくれ、「お前どこ行ってたんだよ!」と、親しみを込めて、頭を軽く叩かれた。
その日から僕はカメラも貴重品もそこらへんに置いて、毎日毎日夢中になってプレーした。
徐々にレシーブもスマッシュも様になってきて、得点できるようになっていった。
ある時、腹の出たおじさんが、一対一の勝負を挑んできた。勝負はほぼ互角だった。終盤、スコアは拮抗していた。
そんなとき、ボールがコートから外れて転がっていった。
拾いにいくと、そこには一番初めに隣に座っていた年を取ったおじさんがいた。満面に笑みをたたえて、頷いた。僕も頷き返し、グーサインを出した。

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