2009年6月16日火曜日

写真はカトマンズとカニャークマリ

寝てしまうものが好きだ。寝てしまう映画。寝てしまう小説。寝てしまう音楽。
いつの間にか寝ていて、やっべ、寝ちゃったよ。と思う。それにもかかわらず、体に、心にしみこんでいて、いつの日か、ふと、繋がって、それが思いもよらない気付きをもたらしてくれる。
そのとき僕はこう思う。あーそうか、自分の体にその何かを消化することにたくさん力を使ったから眠くなるのかと。わかりやすくって、おもしろくって、喜怒哀楽しちゃうものもよけれど、なかなかこういう気持ちにはさせてもらえない。

1Q84は比較的さらりと読めた。村上春樹がこれまでの小説で言いたかったことが、鮮明となって表れていたと感じた。きっと、これまでの作品のどれよりもうまく、自分の書きたいことがかけたのではないだろうか。と勝手に想像する。でも彼の言いたかったことは一貫してきている。これまでの小説にずっとにじみ出てき続けた。それがはっきりと言葉になったとき、それが今回の小説なのだろう。僕は、羊の巡る冒険あたりのもやもやとした、五回くらい読んで、五回とも途中何度も寝てしまって、でも読み続けて、それがある日、自分の日常生活に気付きをもたらせてくれる、そんな物語の方が、個人的には好きかも知れないな、とおもった。内容は、読んでみてください。言いません。


取捨選択のはなし。なんかの集まりと言うのは、たとえ、ある人が嫌いでも、その場の方を優先してその人に合わせようとする。それがマスであればあるほど、顕著に現れてくるように思う。
僕はたまたま個人的にそういうのが嫌いだったから、嫌いだから、今まで避けてきたし、今も避けている。出来れば個人対個人で、好きな人に会いたいし、嫌いなやつにも会いたい。
最近わかったことは、関係性がある程度の規模の集団だったとき、僕は個人という関係性に落とし込んで人間関係を作ろうとする、ようだ。ある人にとってはこれが好ましく映らないようだ。僕は、個人として人と接するなかで、たまたま、それが合わないで、こいつ退屈なやつだな、とか、あほだなとか、むかつくなとか、感じて生きていくというので大正解だと思うのだけれど、また、それが積み重なって出来た集合体には入っていきたいと思うけれど、そうでない、初めから集合を意識したり、個人的な関係でない部分で仲間を作ろうとすることははっきり言ってきょうみがありません。
子供だといわれても、社交性みたいなものがたりないなー、甘いなー、若いなーといわれても、いたしかたがありません。そうかんじるのです。人という器は、遅かれ早かれ、遺伝子によって捨てられるのだから、だったら僕は社交性なんかよりも、個人的な人間関係の中で、生きていきたいのだ。もしそれで立ち行かなくなって、本当に生きていけないような状況になったら、そのときまた考え直すことにします。ということで容易には考えを改めないでしょうということです。

ということで、大好きな皆さん、これからもよろしくおねがいします。こんなぼくですが、個人的な関係をこれからもつづけていきたいと思いますので。。。



インド最南端の日の出は、熱海の日の出と東京の日の出と、そう変わりはありませんでした。
でも素晴らしくよかったです。どれも素晴らしくよいということですね、つまり。
ドイツ行きたい!あうふびーだぜん!

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