◎インド・コルカタ、マイダン公園にて
平日の昼間にも拘らず、マイダン公園では、クリケットやらサッカーを楽しむ子供たちであふれていた。
代々木公園よりも広いように見えるが、100組近くのグループがいたので、けっこうな密度に感じる。さすが人口約1500万人の巨大都市インド・コルカタだ。
◎優越感は旅人を安心させる
おそらく長い旅をしているみんなが感じるだろう、“平日の昼間からオレは何してるいのだろう”という感覚。
坂口安吾が「堕ちるところまで堕ちよ」という素晴らしい格言を残してくれたのだが、現代の旅人たちは今もなお、堕落感にうちひしがれる。
こんなことを言うと怒られそうだが、“平日の昼間からオレは何しているのだろう”感は、途上国にいる“こいつら平日の昼間から何やっているんだろう”感で何となく救われた気持ちになる。インドやバングラデシュや中国などあらゆる所に“平日の昼間から”達があふれている。あるものは麻雀に興じ、あるものはチャーイを飲み、あるものはただひたすらに存在するだけだ。
彼らを見て、僕は、「オレは今こんなにも異国を感じて成長している!」「有り余る時間で『資本論』読んだもんね!(ホントは初めの章だけで挫折したけど…)」「昨日はチャパティを8枚もおかわりしたら、シク教徒のおっさんに褒められた!」などと理由をつけて、意味もなく優越感にひたる。
◎インドでチャイナはヒーローに!
マイダン公園でも悦に入りながら、子供たちの様子を眺めて歩いた。
子供たちからしてみれば、自分たちが見下されているとは、これっぽちも考えていないだろう。そんな風に感じていると、一つのサッカーボールが転がってきた。
蹴り返してあげると、そのサッカーをしているグループの中の一人の男の子がとことこと歩いてやってきた。
「ユー、フリー?」
どう見てもフリーだと思ったけど、僕は含みを持たせた。
「ふふん、どうかなー」
すると彼は「そっか、じゃあいいや」と、踵を返そうとしたので、僕はあわてて、
「暇だからサッカーでもやろうかなー、って思ったんだけどさ」と言うと、(仲間に入れて欲しかったのが正直なところだったので)
「うちのチームが一人足りないから、入ってよ!」と言われた。
よしきた。
実を言えば、僕はそれなりにサッカーができる。サッカー歴は20年ほどもある。(この言葉の響きから感じる上手さの3分の2くらいのレベルだ)
遠巻きに見ている限り、このグループはサッカーが上手いとは言いづらいレベルだった。
いっちょ驚かしてやるかと、試合に参加するなり、僕は強烈なシュートを放った。(ゴールから外れたけれど)すると、同チームの子供たちがみんな僕のところにやってきて抱きついてきた。「へい、チャイナ! 上手いじゃないか、これでぜったい勝ちだぜ!」ってな具合にみんなで大盛り上がり。
ところで、僕はチャイナではないので一応、「ジャパンね」と言っておいた。
その後も、何度も僕が活躍するたびに、子供たちは「チャイナ、チャイナ」の大合唱。僕はヒーローになれたようで、気分が良くなったので、チャイナでもいいかという気持ちになった。
試合は、僕の健闘もむなしく引き分けに終わりPK戦に突入。結局負けてしまった。
◎“涙のお別れ”にはほど遠く…
試合が終えると見計らったかのように、水売りのおじさんがやってきた。子供たちは、さっそくそのおじさんに群がったが、1.5リットルのペットポトルをたったの二本しか買わなかった。20人いてたったそれだけだ。
僕はといえば、一人で一本を購入。が、水を飲めなかった年少の子供たちのうらやましそうな目線でがぶ飲みができない。仕方なく一口だけ飲んで、残りは全部年少の子供たちにあげた。
別れ際に、グループの中でも年長の(14歳くらい)男の子が、「僕のおじさんが、観光案内してくれると思うけど、どう?」って聞いてきた。
それはありがたい話だ、と思い、その話に応じようとすると、先ほど水をあげた年少の男の子が、「悪者だよ、えへへ」と笑顔で言う。
その言葉に怖じ気づいた僕は、年長の男の子の提案を丁寧に断った。
ふと、思い出して、僕はその年長の男の子に尋ねた。
「きみ、平日の昼間からサッカーなんてやって、学校とかはないのか」
もちろん、優越感に浸りたい一心だ。ましてや彼は悪者のおじさんを紹介しようとまでした輩なので、罪悪感も薄い。
「ヘイ、チャイナ、今日は祝日だぜ。明日はもちろん学校さ」
まったくオレは平日の昼間から何をしているのだろう。
2010年12月2日木曜日
2010年10月29日金曜日
インドの食堂での“痛み分け”の話
◇インド東南部にある町マハーバリプラムの食堂で
◇シーク教のおっさんに見下される
◇ミールスはとっても美味しい!
場所は、マハーバリプラムの食堂に戻る。
南インド料理の定番ミールスは、バナナの葉っぱに数種類のおかずとライスが並べられた定食で、ぐちゃぐちゃと右手でかき混ぜながら食べる。
僕もインドに来てからはちゃんと右手でご飯を食べ左手でケツをふいているので、当然のように右手がぐちゃぐちゃ。そこで、飲み水だけど飲まない水の入ったステンレス製のコップに手を突っ込んで簡単にすすいだ。
そして僕は、おもむろに立ち上がり、彼ら3人の前に立つ。
まだカレーのついた手で兄弟だと思われる2人の肩に手を置き「ユー、ユー、ブラザー!!」と言った。僕の手は彼らの肩のおかげで完全に綺麗になった。
それでも通じなかった。そうしてようやく気づいた。彼らは英語がわからないのだ。
だから、インド訛りを意識した英語でつぶやいてみた。とびっきり舌を巻いた「R」を使って「ゆーあーるぶろざー」と。
彼ら3人にはまったく通じなかった。僕の“インド訛り英語”が下手なのだろうか。もう一度、「ゆーあーるぅぅぶるぅざー」
ポカーンとしている彼らインド人3人組。
インド人はいつだってそうさ…。
◇チャーイとビスケットと
前日のこと。
僕はチェンナイからここマハーバリプラムにくる列車に乗り込んだ。インドの列車にしては珍しく、空き空きの車内。悠々と席に座ることができた。
ぼりぼりと美味しくない朝食代わりのビスケット(袋に小さな穴があいていて蟻がたかっていることがよくあったけどこの時はいなかった)をほおばっていた。「チャーイ、チャーイ、チャーイ、チャーイ」と念仏のように呟きながら、チャイ売りのおじさんがやってくる。その「チャーイ」という言葉の響きは、インドではみな一様に少し鼻声で独特に響く。
実は、彼らはみなお茶の産地で有名なダージリンでチャイ売りの講習を受けるそうで、その講習には毎回1万人以上の受講者であふれかえるという話など聞いたことはない。
さて、やかんに入ったチャイを2ルピー(6円)で買う。さして美味しくもないビスケットをこのチャイにつけると、ふんぞり返るほどとは言えないまでも、蟻がたかっていたのでも食べていいかな、と思えるほどには美味しくなる。というくらい、このチャイは美味しい。
◇シーク教のおっさんに見下される
シーク教徒は頭にターバンを巻いているのですごくわかりやすい。インド全人口のおよそ2%しかいないにも拘らず、シーク教徒が目立つのはターバンのせいでもあるが、ビジネス界や政界で活躍する人が多いからでもある。そういったわけで、高等教育を受けている率が高いシーク教徒には、英語が得意なヤツが多い。前置きが長くなったが、彼もその内の一人。英語が出来るようだ。
でも、大半のインド人の英語が訛っていてすごーくわかりづらいように、彼の英語もその例外ではなかった。
全然聞き取れず、逆に僕の英語も全然聞き取ってくれない。しまいには「君は経済大国日本に生まれたのに英語もできないなんて」とダメのレッテルを貼られてしまう。いやいやいやいや。
◇ミールスはとっても美味しい!
南インド料理の定番ミールスは、バナナの葉っぱに数種類のおかずとライスが並べられた定食で、ぐちゃぐちゃと右手でかき混ぜながら食べる。
僕もインドに来てからはちゃんと右手でご飯を食べ左手でケツをふいているので、当然のように右手がぐちゃぐちゃ。そこで、飲み水だけど飲まない水の入ったステンレス製のコップに手を突っ込んで簡単にすすいだ。
そして僕は、おもむろに立ち上がり、彼ら3人の前に立つ。
まだカレーのついた手で兄弟だと思われる2人の肩に手を置き「ユー、ユー、ブラザー!!」と言った。僕の手は彼らの肩のおかげで完全に綺麗になった。
それでも通じなかった。そうしてようやく気づいた。彼らは英語がわからないのだ。
僕は、列車での件もあって勝手に彼らが「英語」で僕を見下しているのだと妄想し、彼ら3人に対して憤慨してしまったわけなのだけれど、訳の分からない彼らは、立ち尽くすばかり。
(やってしまった…)
肩で手まで拭かせてもらい、いまさら後に引けず、僕はどうしたものかと考えた。まあ普通に考えて、ジェスチャーしかないということで、君と君の顔が似ているから、家族だろう?というようなニュアンスでめいっぱい体で表現した。
◇けっきょく…痛み分けか
笑顔で、首をかしげてくれた。インドでは首をかしげる=YESだ。兄弟は肩を組み合って、どうだい僕ら似ているだろう?と言ってくる(気がする)。
あー通じて良かったと思いながら自分の席に戻って、また食事を再開。
すると突然、彼らに呼ばれた。一緒にメシ食おうと言ってくる。いいよ、と同じテーブルに移動して、クチャクチャと一緒にメシを食べた。食べ終わると、店員を呼んでおかわりをお願いしてくれた。(ミールスは基本おかわり自由)
お腹いっぱいで、もういいよーという感じになってくると彼らも察したのか、そいじゃお会計をってことなった。するとおごってやると言う(気がする)。お断りをする間もなく、会計を済ませてくれた。
笑顔でお礼を言って、3人とありがとうのハグをした際に、また手を綺麗に拭かせてもらった。なんて彼らは優しいのだろう。
そう思いながら宿に帰りシャワーを浴びようと服を脱ぐ。
服の背中のところがカレーまみれだった。
2010年10月1日金曜日
ポカラの思い出〜シキ君への手紙にかえて〜
シキ君と初めて会ったのは、ラオスのバンビエンでした。大木(4mくらい?)からの飛び込みでビビったり、洞窟探検で蚊に刺されまくったりしました。
最初の再会は、インドのコルカタにあるパラゴンゲストハウス。シキ君が大はしゃぎで韓国人の女の子とカードゲームをしてたのを覚えています。あの牢獄のような部屋の前で。
3度目に会ったのは、ネパールのカトマンドゥ。世界第2位(160m)のバンジージャンプは、残念ながら行けませんでした。一緒に行くツアーの最低敢行人数を確保できなかったのは、僕らの人間的魅力が足りなかったせいでしょう。
4度目がヨルダンのアンマンで、お互い女の子にうつつを抜かしていました。
最後がイスラエルのエルサレムだと記憶しています。シキ君の下手くそすぎるギター(インドで買ったやつ)の音色に、不覚にも涙がとまりませんでした。
僕の中で、一番印象深いのはネパールのカトマンドゥの後に行ったポカラでの出来事です。そこでは「3つ」の思い出があります。前置きが長くなりましたが、今回はそのお話をします。
◎ポカラでのニワトリパーティーのこと
「ウコ〜コケッコ〜!!」という鶏の悲痛な叫びは、「バスンッ」「キャー!!」という音とともに鳴り止むみ、首からピューっと血が噴き出す。
が、なかなかに切れ味の悪い包丁で切ったため、頭部と動体は首の皮一枚で繋がっている。再度、僕は鶏の首をめがけて包丁を振りかざす。鶏は目をカッと見開いたまま、絶命していた。
新鮮な鶏肉でバーベキューをしようと、僕とシキ君はバイクにまたがってポカラから約1時間かけて、山奥の村に生きた鶏を買い付けに行った。
確か、150ルピーを120ルピーに値切って買った。
次の日、僕とシキ君は、どちらが鶏をしめるかジャンケンをした。結果、僕が負けた。けれど正直に言えば、僕はジャンケンをしなくてもこの貴重な体験をしたいと思っていた。だから、負けて嬉しかったのを覚えている。
実際に、首を切り飛び散った鶏の血が僕の顔に付くと、僕は身震いした。あの時の、鶏の痙攣は今でも目に焼き付いている。僕は目を離せなかった。
そのあと素手で羽をむしりとって捌いた新鮮な鶏肉は、ワイルドな味がした。
◎誕生日に起きた窃盗事件の顛末
「ドンドン、ドンドン」
僕とシキ君が泊まる部屋に、突然窓を叩く音が鳴り響く。僕は「ワーワーワーワー!!」とターザンがジャングルで叫ぶかのごとく、大声を出した。
カトマンドゥにいた時やポカラに着いてからも、「いま、ポカラでは夜中の窃盗が流行っている」という噂を何度も聞いた。
実際に被害に遭いそうになった可愛らしい日本人の女の子は、僕らにこう話した。「危険を察知(部屋のまわりを数人の男性に囲まれたらしい)し、部屋の電気を全てつけ、自分が部屋に一人だと悟られないために、動きまわったり声を張り上げて切抜けた」
この話を聞いていた僕は、隣のベッドにシキ君という心強い巨漢がいるのを忘れ、一人声を出し続けた。体はこわばって、少しも動かなかったので、電気をつけることはできなかった。
泣きそうになりながら、「ワーワー」と30秒も声を出していると、良い意味で単細胞の眠りが深いシキ君もさすがに何事かと起き上がった。
「なにしてるんすかユウジロさん」
「シキ君、強盗だよ! 強盗! はやく声を張り上げて!」
「え、何言ってるんすか。あ、オンナだ」
シキ君が、指差した窓の向こうには、見覚えのある女の子の姿が。その日、僕が話しかけた香港の女の子(オンナという名前の女の子)だった。実は、彼女とは1カ月前にコルカタで同じ宿だったこともあり、仲良くなったのだ。その日は僕の誕生日だったので、シキ君も一緒に3人でメシを食べた。
オンナは僕に左手を出せといってきた。
僕は涙目を拭いながら、左手を差し出すと、ミサンガをつけてくれた。
「誕生日と聞いて作ってみたの。今夜中に間に合ってよかったわ」
「ご、ごめんなさい。強盗かと思って騒いじゃいました。ありがとう」
シキ君は、(こいつあいかわらず、小心者やな)という目で僕を見ていた。「部屋の片隅にある、シキ君が買ってきたドリアンが臭かったせいで悪夢を見た」という言い訳をしたかったけど、既にラオスでの飛び込みでビビりまくる姿を見られていたので、やめておいた。
◎ペワ湖での釣り「結局、釣れないほうが良かったのだ」
朝6時に起きて、ペワ湖で釣りをしたときのこと。
僕は「釣り」には自信があったので、シキ君に良いところ見せてやろうと釣りに誘った。ボートを漕ぎ出し、前日に借りておいた釣り竿でルアーを投げる。しかし、釣れる気配がまったくなかった。ボートを漕ぐのも疲れてきたので、お昼になる前に、切り上げようということになったその時! シキ君の竿にアタリが! そして、40㎝程のコイみたいな魚を見事釣り上げた。
シキ君はしたり顔で、僕に顔を向けた。「ちくしょう、素人丸出しのギコチナイ動きのくせに…」と思ったけど言わなかった。
その魚を近くの中華料理屋に持っていくと、四川風に調理してもらえたので、2人で平らげた。
その魚を食った翌日、僕とシキ君はインドのバラナシ向けて、バスに乗り込んだ。僕はその道中で急に体調を崩し、高熱を出し、バラナシの宿で3日間動けなかった。
シキ君はと言えば、魚を食ったその日から「卵ゲップ病」という病にかかった。寄生虫が胃に入り込み、下痢とゲップがとまらない病気である。一週間以上も腐った卵の匂いのするゲップをしていた(インド人にさえ臭いと言われていた)から、現地の薬局で薬を処方してもらい、それを飲むと「ウンコと一緒に蛇みたいな変な生き物が出てきた」とは言っていなかったけれど、一発で治ったようだった。
僕は「お前が変な魚を釣るからこうなったんだ」と思ったけど言わなかった。
2010年9月10日金曜日
初めての海外一人旅 〜甘い誘惑編〜
◯ハンブルグは冬だった
「何も心配はいらないから行ってきなさい」
「で、でもやっぱり恐いので……」
「ここまできて帰るのか!? それでも君は男か!」
「は、はい。行ってきます!」
19歳の冬、僕は初めて一人で海外へ飛び出した。
ドイツ、フランス、スペインをまわる大冒険だった。初日、不安とか恐れとか、もうビビりまくりで、ドイツ・ハンブルグへ降り立った。
小便チビリそうになりながら、市内に着いたときにはすでに夕暮れをむかえていた。
泊まるつもりでいた目当てのユースホステルがどこにあるのかまったくわからない。『ヨーロッパ3000円の宿』に載っていた小さな地図を手書きでうつしたメモしか持っていなかった。歩けど歩けど、着かない。日は完全に落ち、街が暗くなってくる。
仕方なく、近くにあったホテルのマークが着いている建物に入り、道を尋ねた。どうやらてんでおかしな方向を歩いていたようだ。地下鉄を乗り継ぎ、何とか、ユースホステルに着いた。
◯オリバー(25歳)はそんなに大人じゃない
「泊まりたいんですけど…」目が青くて、なぜか下半身ばかり太っている白人のおばさんが、「予約してくれないと困るんだけどね〜」とグチグチ文句を言いながらも部屋へ案内してくれた。
四人部屋ドミトリーには、僕のほかに、韓国人とドイツ人の男がいた。一年ばかり習った拙いドイツ語でそのドイツ人(確か、オリバーと名乗った)に話しかけると喜んでくれて、一緒にメシにいこうと誘ってくれた。
オリバーは、25歳のサラリーマンで、どこか遠くのドイツの街から出張にきていると言った。
ビールをグビグビ飲むオリバーがもの凄く大人に見えた。僕は一杯でへろへろだ。
でも、おごってはくれなかった。25歳はそんなに大人じゃないのかもしれないと、そのとき思った。
◯ユースホステルのバーで
ユースホステルに戻ると、することがなかった。
夜も9時になっていたので、一人では恐くて外にも出られない。
仕方なしに、ユースホステル内にある、バーに行ってみることにした。
まず目に入ったのは、2人の日本人女性だった。僕は何かにひきつけられるように、彼女たちに話しかけていた。不安を紛らわしたい一心だった。でも、そんな僕をナンパ野郎と勘違いしたのか、冷たくあしらわれた。仕方なく一人でカウンターに座って、ビールを飲むことにした。ビールは相変わらずマズかった。
「ヘイ、君は日本人かい?」
隣に座っていた白人男性が急に話しかけてきた。
「そ、そうですけど、初めてで、いろいろ、えっとスゴいですね〜」
よくわからないことを英語で答えた。
それでも、彼は親切に色々と話してくれた。日本にも行ったことがあると言った。
ポーランド人のシモンという名前だったと記憶する。
シモンは、お酒がすすんでくると、小さな声で僕の耳にささやいた。
「君は、金髪が好きかい?」
「は、はぁ。嫌いな人はいないと思います」
「わかった。よしじゃあ俺についてこい」
◯シモン(23歳)はビビっていたのかもしれない
ユースホステルの隣の駅に着くと、そこは別世界だった。
──レーパーバーン。
「世界で最も罪深き1マイル」とも称される、ヨーロッパでも随一の歓楽街。(もちろん、そのとき僕はそんなこと知らなかったけれど)どこからどう見ても、妖しい電飾がゆらめくエロスの街だった。一人で引き返すのも恐いので、僕はズンズンと歩くシモンの背中を見失わないように、必死に後を追った。5分くらい歩くと、シモンが一軒の店に立ち止まり僕に叫んだ。
「何も心配はいらないから行ってきなさい」
「??」僕がハテナという顔をしていると彼は着いて来いと、先頭をきって建物に入っていった。
建物の中にはたくさんのドアがあって、ドアの前にはそれぞれ金髪の美女(そうでない女性も)が一人ずつ座って、ウィンクなり投げキッスなりで誘惑してくる。
シモンはお手本を見せてやると、一人の女性に話しかけた。
どうやら、時間とお金とプレーの交渉をしているようだった。
一度、シモンと共に、建物の入り口まで戻ると、彼はもう一度僕に、
「何も心配はいらないから行ってきなさい」と言った。
「で、でもやっぱり恐いので……」僕が渋っていると、
「ここまできて帰るのか!? それでも君は男か!」
え〜!? 君が強引に連れてきただけじゃないか!? と思ったけど、口に出せず、
「は、はい。行ってきます!」と答えてしまった。
一人でもう一度その建物に入ると、余計に恐ろしく、誘惑してくる女性たちはみな悪魔のように見えてきてしまった…。
とにかく、落ち着こうと、端っこにあった階段に腰掛け、気分を沈めようとした。
すると、それまで閉まっていた目の前のドアが開き、金髪の女性が顔をのぞかせた。
「どうしたの、大丈夫?」
その優しい言葉が、誘惑のためだったかは定かではないけれど……。
その1時間後、僕はユースホステルに帰りシャワー室に駆け込んだ。
シモンは最後まで、僕にはポーランドにハニーがいると言って、そのドアの向こうには行かなかった。
彼も、意外にビビっていたのかもしれない、だから僕に行かせたのだ、そう思った。シモンは23歳だ。
19歳の僕と23歳のシモンと25歳のオリバーの話。
「何も心配はいらないから行ってきなさい」
「で、でもやっぱり恐いので……」
「ここまできて帰るのか!? それでも君は男か!」
「は、はい。行ってきます!」
19歳の冬、僕は初めて一人で海外へ飛び出した。
ドイツ、フランス、スペインをまわる大冒険だった。初日、不安とか恐れとか、もうビビりまくりで、ドイツ・ハンブルグへ降り立った。
小便チビリそうになりながら、市内に着いたときにはすでに夕暮れをむかえていた。
泊まるつもりでいた目当てのユースホステルがどこにあるのかまったくわからない。『ヨーロッパ3000円の宿』に載っていた小さな地図を手書きでうつしたメモしか持っていなかった。歩けど歩けど、着かない。日は完全に落ち、街が暗くなってくる。
仕方なく、近くにあったホテルのマークが着いている建物に入り、道を尋ねた。どうやらてんでおかしな方向を歩いていたようだ。地下鉄を乗り継ぎ、何とか、ユースホステルに着いた。
◯オリバー(25歳)はそんなに大人じゃない
「泊まりたいんですけど…」目が青くて、なぜか下半身ばかり太っている白人のおばさんが、「予約してくれないと困るんだけどね〜」とグチグチ文句を言いながらも部屋へ案内してくれた。
四人部屋ドミトリーには、僕のほかに、韓国人とドイツ人の男がいた。一年ばかり習った拙いドイツ語でそのドイツ人(確か、オリバーと名乗った)に話しかけると喜んでくれて、一緒にメシにいこうと誘ってくれた。
オリバーは、25歳のサラリーマンで、どこか遠くのドイツの街から出張にきていると言った。
ビールをグビグビ飲むオリバーがもの凄く大人に見えた。僕は一杯でへろへろだ。
でも、おごってはくれなかった。25歳はそんなに大人じゃないのかもしれないと、そのとき思った。
◯ユースホステルのバーで
ユースホステルに戻ると、することがなかった。
夜も9時になっていたので、一人では恐くて外にも出られない。
仕方なしに、ユースホステル内にある、バーに行ってみることにした。
まず目に入ったのは、2人の日本人女性だった。僕は何かにひきつけられるように、彼女たちに話しかけていた。不安を紛らわしたい一心だった。でも、そんな僕をナンパ野郎と勘違いしたのか、冷たくあしらわれた。仕方なく一人でカウンターに座って、ビールを飲むことにした。ビールは相変わらずマズかった。
「ヘイ、君は日本人かい?」
隣に座っていた白人男性が急に話しかけてきた。
「そ、そうですけど、初めてで、いろいろ、えっとスゴいですね〜」
よくわからないことを英語で答えた。
それでも、彼は親切に色々と話してくれた。日本にも行ったことがあると言った。
ポーランド人のシモンという名前だったと記憶する。
シモンは、お酒がすすんでくると、小さな声で僕の耳にささやいた。
「君は、金髪が好きかい?」
「は、はぁ。嫌いな人はいないと思います」
「わかった。よしじゃあ俺についてこい」
◯シモン(23歳)はビビっていたのかもしれない
ユースホステルの隣の駅に着くと、そこは別世界だった。
──レーパーバーン。
「世界で最も罪深き1マイル」とも称される、ヨーロッパでも随一の歓楽街。(もちろん、そのとき僕はそんなこと知らなかったけれど)どこからどう見ても、妖しい電飾がゆらめくエロスの街だった。一人で引き返すのも恐いので、僕はズンズンと歩くシモンの背中を見失わないように、必死に後を追った。5分くらい歩くと、シモンが一軒の店に立ち止まり僕に叫んだ。
「何も心配はいらないから行ってきなさい」
「??」僕がハテナという顔をしていると彼は着いて来いと、先頭をきって建物に入っていった。
建物の中にはたくさんのドアがあって、ドアの前にはそれぞれ金髪の美女(そうでない女性も)が一人ずつ座って、ウィンクなり投げキッスなりで誘惑してくる。
シモンはお手本を見せてやると、一人の女性に話しかけた。
どうやら、時間とお金とプレーの交渉をしているようだった。
一度、シモンと共に、建物の入り口まで戻ると、彼はもう一度僕に、
「何も心配はいらないから行ってきなさい」と言った。
「で、でもやっぱり恐いので……」僕が渋っていると、
「ここまできて帰るのか!? それでも君は男か!」
え〜!? 君が強引に連れてきただけじゃないか!? と思ったけど、口に出せず、
「は、はい。行ってきます!」と答えてしまった。
一人でもう一度その建物に入ると、余計に恐ろしく、誘惑してくる女性たちはみな悪魔のように見えてきてしまった…。
とにかく、落ち着こうと、端っこにあった階段に腰掛け、気分を沈めようとした。
すると、それまで閉まっていた目の前のドアが開き、金髪の女性が顔をのぞかせた。
「どうしたの、大丈夫?」
その優しい言葉が、誘惑のためだったかは定かではないけれど……。
その1時間後、僕はユースホステルに帰りシャワー室に駆け込んだ。
シモンは最後まで、僕にはポーランドにハニーがいると言って、そのドアの向こうには行かなかった。
彼も、意外にビビっていたのかもしれない、だから僕に行かせたのだ、そう思った。シモンは23歳だ。
19歳の僕と23歳のシモンと25歳のオリバーの話。
2010年8月3日火曜日
長旅に際しての個人的な僕の移動のきっかけ①
◯なぜそんなところに覗き穴が!?
中庭にある洗面台で歯を磨いていると、すぐ脇にあるドアからシャワーの音が聞こえてきた。
「こんなところに、シャワーがあったのか…」
ふと目を向けると大変な事実に気付いた。なんと、そのドアの鍵穴には1㎝ほどの覗き穴のようなものがあった。驚きと興奮のあまり、僕は泡をふいてしまった。(と思ったら、歯磨きの泡が垂れていただけだった)
「焦るな。焦りから良い結果は生まれないぞ」と自分を諭すように呟き、僕はまわりを見渡した。中庭には、食事のできるテーブルが2つ、計8人分の席がある。僕は、ごく自然な面持ちで、チラリとテーブルに目をやると、そこには誰もいなかった。さらにそのテーブルの奥には、キッチンがある。そこで、宿泊者の食事(オーダーがあれば)を作る。テーブルに誰もいないのだから、当然キッチンには誰もいなかった。僕は、よしよし、いい流れだ、と、歯を磨く手に力が入った。
◯No Drugs in Puri!!
インドのオリッサ州にあるプリーは、コルカタからおよそ500km南西にあるベンガル湾沿いの小都市。かつては「西のゴア、東のプリー」といわれるヒッピーの聖地だったようだが、僕が訪れた2008年6月は、ちょうど雨期に入り始めた頃だったこともあるのだろうが、かなり閑散としていた。
プリーは、ヒッピーの聖地という以外にも、ヒンズー教の四大聖地の一つ、ジャガンナート寺院の門前町という顔もある。参道である町のメインストリートでは、お祭り用のどでかい車輪を作っていたり、お土産や宗教グッズ、お菓子屋など無数の出店が並んでいたり、野良牛と巡礼者が戯れていたり、実にインドらしい混沌具合が見られた。
◯「世界に取り残された」ホテル・ガンダーラの日々
僕が泊まっていたホテル・ガンダーラは、日本人に有名な3つの宿の一つである。そこには当然のように無数の日本の本があった。プリーでできる観光や暇つぶしを一通り済ませると、部屋にこもってそれらの本を貪るように読んだ。
雨期で、外に出るのが億劫だったのも、部屋にこもることになった要因だ。そうして、外出は一日に数十分という日が続いた。
ホテルには、ほとんど宿泊客がいなかった。が、ある日、隣の部屋に、インド人(?)男性と日本人女性のカップルやってきた。ある時、すれ違い様に、簡単な挨拶を交わした。
やがて、次第に僕は「世界に取り残された」気分になっていった。ホテルにあった「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」をいっきに読むと、それまでの陰鬱な気分に拍車をかけ、頭の中がぐるんぐるんになった。
突如、桶をひっくり返したようなスコールと激しい雷が町を襲った。と同時に、「カチン」と、頭の中でスイッチが切り替わり、僕は東南アジアでさんざんな目にあった、“キマっている”ときを思い出し、目眩が止まらなくなった。ハッパから手を引いて、およそ、ひと月は経っているはずなのだが…雨がやみ、透き通った空気が町を軽やかに見せても、僕の気分は軽やかにならなかった。
頭の中の何かがおかしかった。
◯思考は一転、エロ一直線へ!!
気分を変えなくては。
このままではまずい、と思考がおかしな方向に行く前に、行動をすることを決意。
僕は、汗まみれの服を入念に洗濯し、コチコチに固まった身体をじっくりと時間をかけてストレッチした。徐々にではあるが、集中力が高まり、いくぶん頭の中もクリアになった。さらに顔を洗い、歯を磨く。すべての歯垢を取り除くよう、実に丹念に。シャワーの音はそんな矢先に聞こえてきた。
鬱な気分は吹き飛んだ。頭は、エロ一直線!!誰かに見られていないことを確認すると、僕は勇んでかつ慎重に鍵穴に目を向けた…
「うわっ!!」突然、ベチョベチョしたものが僕の足に触れた。
寡黙に掃除を担当するインド人が、ぼろぼろになった真っ黒な雑巾で僕の足を拭いたのだ。彼自身も僕がそこにいたことに、びっくりしたようで、目を丸くしていた。(なんなんだよ、びっくりさせやがって、バレたかと思ったじゃないか…)僕はそう毒づきながら、歯磨きを済ませ、部屋に戻った。部屋に戻るとき、料理担当のインド人と目が合った。彼は、ほくそ笑むようにニヤリとした。
◯満を持して、2度目のチャンス到来!!
焦りは禁物だ。僕は、耳を凝らして、次のチャンスをうかがうことにした。こっちには時間だけならいくらでもある。飯を食べるのも忘れ、僕はその時を待った。
次にシャワーの音が聞こえてきたのは、日が落ちかけてきた、夕暮れ時だった。
僕は、歯を磨き始めた。そして、前回と同じように、中庭を見渡し、誰もいないことを確認。よし、今回は間違いない。誰にも邪魔されないぞ、いや、むしろ、この際、邪魔されようが見てやる、とばかりに気合いを入れて、鍵穴に目を動かした。
そこには、期待通りのあの姿が…と思った瞬間、また足下にいる雑巾がけのインド人と目が合った。そして、「君の足下を拭きたいから、どけ」というジェスチャーをされた。
(こ、こいつめ…)僕は怒りを覚えた。きっと顔も凄い剣幕をしていたはずだ。
すると、キッチンの方から、料理担当のインド人2人が、僕を見ながらゲラゲラと笑う声が聞こえてきた。
「しまった。これは罠だったのか。見られていたのか!?」
◯旅の移動は突然に…
何度か、耳にしたことがあった。シャワー室にわざと覗き穴をあけておき、それを覗いた宿泊客から、お金をせびるという手段だ。
(やられた…)
「覗く」ことから、いっきに「いくらまでなら払うか」を計算する頭に切り替わった。(100ルピーか、いやいや、それではいくらなんでも高すぎる、10ルピーずつくらいが妥当なところか!?)などと、考えていると、そのインド人3人はウィンクしながら、近づいてきて、あっさりとシャワー室を順番に覗いた。
(あ!!!おまえら、確信犯だったのかよ…)
僕の気分はいっきにさめた。覗くことはおろか、この町にいるのも嫌になった。
すぐさま、荷物をバックパックに詰め込んで、プリー駅に駆け込み、オリッサ州の首都ブバネーシュワルへ向かった。そこからならば、チェンナイ行きの夜行列車がある気がした。思った通り、チェンナイ行きの夜行列車があり、今にも出発というところだった。
SLクラス(Sleeper Class)なんて乗るきになるか!!とばかりに、車掌に値段がひじょ〜に高いエアコン付二等寝台の席を確認すると、空いているという返事が返ってきたので、僕はその電車に飛び乗った。
2010年4月19日月曜日
自己責任と縄張り争い
◎リチャード
なぜか、リチャードは握手を求めてきた。
そして、心配する僕の言葉を制して、
「盗られたクレジットカードは止めたし、トラベラーズチェックと少しの現金も大きな問題ではないさ。パスポートは大使館に行けばいい。あとは彼女だけで何とかなるさ」
と言いながら、ソファーに腰掛け、その大きな両手で顔を覆い、空を仰ぎ、黙り込んだ。
これは、マレーシア・ペナン島のジョージタウンにある安宿、Love Lane Inn でのできことだ。
◎ティチャッ
「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ…」
どこからともなく、高い音が聞こえてきた。
ジョージダウンは、ペナンという周囲100km程度しかない島にあるにも拘らず、かなりの都会だ。その町の中心に位置している宿の軒先で、はっきりと耳にすることができるので、その音はそれなりの大きさだ。
Love Lane Innの宿主のおじさんに、これは何の音かと尋ねると、笑って壁を指差し「ティチャッ」と言った。目をやると、そこには、大小さまざまな無数のヤモリがいた。なるほど、確かにその中の何匹かが全身を震わせるようにして、鳴いているように見える。
読んでいた「地下室の手記」を置き、しばらくヤモリを観察した。
無秩序に壁に張り付いているように見えた彼らだったが、実は縄張りによって、独自の法律が存在していることに気付いた。
近くにきた蛾などの虫に近づいてはパクリと食べる彼ら。そんな中、獲物に気をとられのか、「自分の場所」から長い距離を移動した一匹がいた。縄張りを取られては堪らないとばかりに、すかさず、「そこ」を縄張りとする一匹が近づき、口でつつく。攻撃されたほうのヤモリは、「あ、ごめんごめん」とばかりにまた定位置に戻る。あるいは、縄張りを持つ側が圧倒的にサイズが小さい場合、追い出すことに失敗することも。口でつついたら、逆につつき返され、壁から落下する、そんなこともあった。
ヤモリの観察にも飽き、ドストエフスキーの“転換作”に戻り、タイガービールをひとくち、口に含もうとした。すると、突然一人の白人男性が宿から飛び出した。
◎フランス人の女の子
僕の向かいに座っていた、白人の女の子が「キャー」とか「うわぁー」とか、叫ぶ。
まさか、と思い、僕も白人男性の後を追う。二周りほど年齢が上に見受けられるその白人男性を追い抜き、Love Lane通りをひた走る。
「犯人」と思われる二人乗りのバイクは交差点まで行くと、右折。その3秒ほど後に、僕も交差点にたどり着き、右を見たが、既にその姿は、町の風景に溶け込んでしまっていた。探し出すことは不可能だった。
宿に戻ると、その白人の女の子は、「全てとられたのよ。私どうしたらいいのよ」と半狂乱になって、叫んでいた。
白人男性は、彼女を落ち着かせ、「君はどこから来たのか」、「何をとられたのか」 などを、効率よく聞き、一つずつ対処した。
事務手続きが済むと、白人男性は僕のところにきて
「僕はリチャード、オーストラリアからだ、君は何人だい?」と、初めて会った旅人同士がする一般的な挨拶をしながら、握手を求めてきた。
「あのフランス人の女の子は大丈夫だろうか…」
と不安げに僕が呟くと、リチャードは
「あとは彼女が何とかするさ。僕らにできることはもうこれ以上ないよ」
と言って、ソファーに座り込んだ。
それ以上何かを言えば、リチャードは“自己責任論”について、講釈を垂らしそうだったので、僕はもう口を開くのをやめた。
◎マレーシアという国
日本でも、マレーシアは多民族国家として有名だ。僕も中学だったか高校だったか忘れたが、社会の授業で習った記憶がある。ただ、「民族対立」というテーマでは、教わっていないように記憶している。
マレー系、華僑系、インド系が主な人種であるが、実際に来てみると、その文化的交流は盛んとは言いがたいものの、皆無ではない。
エルサレムなんかだと、通りの向こう側は100%「ユダヤ人」、こちら側は「パレスチナ人」と、はっきり区別されていたが、クアラルンプールでは、インド料理屋が並ぶ屋台村で、華僑がカレーを食べている姿は、珍しくはなかった。
だから僕は、その言葉にひどく驚いたことを、今でも鮮明に覚えている。
◎宿のおばさん
「もちろん、その犯人は黒かったんでしょ?」と、宿の“本当の主”である宿主の奥さんは、フランス人の女の子に聞く。警察に電話をするためだ。
「一瞬で、あまり見えなかったけど、たぶんそうだった気がするわ…」
と、自信なさげに、答えると、すかさず、“本当の主”は、
「ぜったいインド人の仕業だわ。あの、こん畜生、インド人め!!わたしたち華僑はいっつも彼らの犠牲者よ」と、半ば叫びながら警察に電話をしていた。
宿主のおじさんは、小さい声で、僕に「気をつけるんだぞ」と忠告した。
僕は、インド人に対する、その偏見の言葉を耳にしたとき、ひどく心がざわついた。
なんだか無性に哀しくもなった。マレーシアは、飯は旨い、物価も安い、治安も悪くはないし、ぼったくりも無いとは言いがたいけれど、そんなにひどくはないので、結構気に入っていた。だから、ここペナン島には長居するつもりでいた。でも、この事件で一気にその気持ちも冷めた。いや、事件にというよりも、彼らのインド人に対する誹謗中傷に、と言ったほうが正しい。
◎そして僕はタイへ行こうと決めた
道路に沿っている、この宿のテラスは、そんなに気を許していいところではない。
ななめ向かいには、売春宿はあるし(そこに立つ女の子は、時折、僕にウインクや手招きをした)、車やバイクも行き交う。
いくつかの旅人情報ノート(マラッカやクアラルンプールの安宿にあったものだと記憶する)で、ジョージタウンでの引ったくりや置き引きに対する注意書も見たことがあった。
リチャードの言うとおり、確かに“自己責任”と言われても仕方のないところだ。
それを、ここの宿主たちは、一様にインド人を貶した。犯人を憎むのではなく、インド人を憎んでいるかのごとく。
僕は、宿の2階にあるドミトリー部屋に戻り、物思いにふけっていた。
すると、またあの「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ」という鳴き声が聞こえてきた。
窓から差し込む月の明かりに照らされた壁を見上げると、そこにも無数のヤモリがいた。
彼らは、相変わらず、縄張り争いをしていた。
なぜか、リチャードは握手を求めてきた。
そして、心配する僕の言葉を制して、
「盗られたクレジットカードは止めたし、トラベラーズチェックと少しの現金も大きな問題ではないさ。パスポートは大使館に行けばいい。あとは彼女だけで何とかなるさ」
と言いながら、ソファーに腰掛け、その大きな両手で顔を覆い、空を仰ぎ、黙り込んだ。
これは、マレーシア・ペナン島のジョージタウンにある安宿、Love Lane Inn でのできことだ。
◎ティチャッ
「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ…」
どこからともなく、高い音が聞こえてきた。
ジョージダウンは、ペナンという周囲100km程度しかない島にあるにも拘らず、かなりの都会だ。その町の中心に位置している宿の軒先で、はっきりと耳にすることができるので、その音はそれなりの大きさだ。
Love Lane Innの宿主のおじさんに、これは何の音かと尋ねると、笑って壁を指差し「ティチャッ」と言った。目をやると、そこには、大小さまざまな無数のヤモリがいた。なるほど、確かにその中の何匹かが全身を震わせるようにして、鳴いているように見える。
読んでいた「地下室の手記」を置き、しばらくヤモリを観察した。
無秩序に壁に張り付いているように見えた彼らだったが、実は縄張りによって、独自の法律が存在していることに気付いた。
近くにきた蛾などの虫に近づいてはパクリと食べる彼ら。そんな中、獲物に気をとられのか、「自分の場所」から長い距離を移動した一匹がいた。縄張りを取られては堪らないとばかりに、すかさず、「そこ」を縄張りとする一匹が近づき、口でつつく。攻撃されたほうのヤモリは、「あ、ごめんごめん」とばかりにまた定位置に戻る。あるいは、縄張りを持つ側が圧倒的にサイズが小さい場合、追い出すことに失敗することも。口でつついたら、逆につつき返され、壁から落下する、そんなこともあった。
ヤモリの観察にも飽き、ドストエフスキーの“転換作”に戻り、タイガービールをひとくち、口に含もうとした。すると、突然一人の白人男性が宿から飛び出した。
◎フランス人の女の子
僕の向かいに座っていた、白人の女の子が「キャー」とか「うわぁー」とか、叫ぶ。
まさか、と思い、僕も白人男性の後を追う。二周りほど年齢が上に見受けられるその白人男性を追い抜き、Love Lane通りをひた走る。
「犯人」と思われる二人乗りのバイクは交差点まで行くと、右折。その3秒ほど後に、僕も交差点にたどり着き、右を見たが、既にその姿は、町の風景に溶け込んでしまっていた。探し出すことは不可能だった。
宿に戻ると、その白人の女の子は、「全てとられたのよ。私どうしたらいいのよ」と半狂乱になって、叫んでいた。
白人男性は、彼女を落ち着かせ、「君はどこから来たのか」、「何をとられたのか」 などを、効率よく聞き、一つずつ対処した。
事務手続きが済むと、白人男性は僕のところにきて
「僕はリチャード、オーストラリアからだ、君は何人だい?」と、初めて会った旅人同士がする一般的な挨拶をしながら、握手を求めてきた。
「あのフランス人の女の子は大丈夫だろうか…」
と不安げに僕が呟くと、リチャードは
「あとは彼女が何とかするさ。僕らにできることはもうこれ以上ないよ」
と言って、ソファーに座り込んだ。
それ以上何かを言えば、リチャードは“自己責任論”について、講釈を垂らしそうだったので、僕はもう口を開くのをやめた。
◎マレーシアという国
日本でも、マレーシアは多民族国家として有名だ。僕も中学だったか高校だったか忘れたが、社会の授業で習った記憶がある。ただ、「民族対立」というテーマでは、教わっていないように記憶している。
マレー系、華僑系、インド系が主な人種であるが、実際に来てみると、その文化的交流は盛んとは言いがたいものの、皆無ではない。
エルサレムなんかだと、通りの向こう側は100%「ユダヤ人」、こちら側は「パレスチナ人」と、はっきり区別されていたが、クアラルンプールでは、インド料理屋が並ぶ屋台村で、華僑がカレーを食べている姿は、珍しくはなかった。
だから僕は、その言葉にひどく驚いたことを、今でも鮮明に覚えている。
◎宿のおばさん
「もちろん、その犯人は黒かったんでしょ?」と、宿の“本当の主”である宿主の奥さんは、フランス人の女の子に聞く。警察に電話をするためだ。
「一瞬で、あまり見えなかったけど、たぶんそうだった気がするわ…」
と、自信なさげに、答えると、すかさず、“本当の主”は、
「ぜったいインド人の仕業だわ。あの、こん畜生、インド人め!!わたしたち華僑はいっつも彼らの犠牲者よ」と、半ば叫びながら警察に電話をしていた。
宿主のおじさんは、小さい声で、僕に「気をつけるんだぞ」と忠告した。
僕は、インド人に対する、その偏見の言葉を耳にしたとき、ひどく心がざわついた。
なんだか無性に哀しくもなった。マレーシアは、飯は旨い、物価も安い、治安も悪くはないし、ぼったくりも無いとは言いがたいけれど、そんなにひどくはないので、結構気に入っていた。だから、ここペナン島には長居するつもりでいた。でも、この事件で一気にその気持ちも冷めた。いや、事件にというよりも、彼らのインド人に対する誹謗中傷に、と言ったほうが正しい。
◎そして僕はタイへ行こうと決めた
道路に沿っている、この宿のテラスは、そんなに気を許していいところではない。
ななめ向かいには、売春宿はあるし(そこに立つ女の子は、時折、僕にウインクや手招きをした)、車やバイクも行き交う。
いくつかの旅人情報ノート(マラッカやクアラルンプールの安宿にあったものだと記憶する)で、ジョージタウンでの引ったくりや置き引きに対する注意書も見たことがあった。
リチャードの言うとおり、確かに“自己責任”と言われても仕方のないところだ。
それを、ここの宿主たちは、一様にインド人を貶した。犯人を憎むのではなく、インド人を憎んでいるかのごとく。
僕は、宿の2階にあるドミトリー部屋に戻り、物思いにふけっていた。
すると、またあの「キェ、キェ、キェ、キェ、キェ」という鳴き声が聞こえてきた。
窓から差し込む月の明かりに照らされた壁を見上げると、そこにも無数のヤモリがいた。
彼らは、相変わらず、縄張り争いをしていた。
2010年4月1日木曜日
微笑みの国、タイの“微笑み”のワケ
◎トゥクトゥクのおっさんの奇妙な行動
ピックアップトラックの荷台に乗った少年に突然、水をかけられた。彼は、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
4月13日、僕はスコータイからの夜行バスでチェンマイに着いた。
バックパックを背負って、遠距離バスターミナルに降り立つと、いつものように僕は、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。
「安宿なら、旧市街に行けばいくらでもある」と、意気揚々と旧市街に向かうように指示をした。
まだ旧市街には達していないところで、何の前触れもなく、トゥクトゥクは停まった。「降りて、ここからは歩いてくれ」と言う。
普段は、“微笑みを絶やさず”に、うざいほど最後まで旅行者につきまとう彼ら。そして、何とか宿のマージンを手に入れようと、あるいは、その後の旅行をアテンドさせて欲しいと買って出てくるはずなのに…
不思議に思ったが、料金も良心的だったこともあってか、「まぁいいか」という気持ちで、とぼとぼ歩き出すことにした。
◎タイ人の「世渡り上手力」
「政治的に不安だから旅行者は気をつけるべし」という声を良く聞く。しかし、僕の経験則から言って、気をつけるべきは、「日本に帰る時間」だけだ。
彼ら、タイ人の「世渡り上手力」は歴史的にも証明されている(第1次世界大戦や第2時世界対戦での彼らの列強に対する振る舞いを見ればよくわかる)通り、飛び抜けて高い。
だから、彼らは外国人旅行者を巻き込んだらどうなるかくらい心得ている。政治的要因で、日本人やその他外国人に危害を加えることは、ほとんど考えづらい。
ただし、こと「交通機関」に関してはそうはいかない。空港を占拠されれば、日本へ帰ることはできない。旅行の翌日に、日本で「重要な会議」を控えている人間は大いに気をつけるべきだ。
「日本にどうしても大事な会議があるから通してくださいな」と、お願いしようがお構いなし。微笑みを絶やさずに、「マイペンラ〜イ(問題ないよ)」と言われるだけで、日本へは帰れないだろう。
◎マイペンライが恐いワケ
旧市街に着くと、とんでもない状態になっていた。4月13日〜15日の旧正月に執り行われる、水掛祭り(ソンクラーン)のまっただ中だったのだ。中でもチェンマイのそれは有名で、日本でも知れ渡っている。
僕は今日がその日だと言うことをてっきり忘れて、何の用意もないまま、この地に降り立ってしまったのだ。
ソンクラーンでは、外国人旅行者もへったくれもない。とにかく水をかけまくる。こちらがどんなに高価なカメラを持ち、どんなに大きなバックパックを背負い、どんなに身振り手振りで許しを乞おうが彼らは微笑みながら、水を掛けてくる。20万円のカメラが再起不能になろうが、「マイペンライ」なのだ。
時には死人だって出る。高速で走るバイクに向かって、思い切りバケツの水をぶちまけるから、転倒事故が後を絶たないのだ。
実際に、僕もバイクで時速40キロを出して走っているところを、木の陰に隠れた少年に水をかけられ、あやうく転ぶところだった。それでも彼らは「マイペンライ」だ。
◎デジカメを守れ!
とにかく、デジタルカメラとパスポートと紙幣(2000ドル+10万円)だけは守ろうと、何重にもビニール袋を被せ、バックパックの奥底にしまい込んだ。
と同時に、後ろから水をかけられた。振り向くと、ピックアップトラックの荷台に乗った少年が、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
ぎりぎりのタイミングだったので、本当に危なかった。
何とか安宿に着いたが、そのときには全身水浸し状態。
あーあと思いながら、バックパックを開けて、最重要荷物が無事なことを確認すると、僕は、荷物を放り出して、目をつけておいた食堂に行った。全身濡れたままで…
ずぶ濡れの僕を見ても、全く驚かない店主。うまい食事。40℃近い日照り。そして、ビール。店の前では、水をかけあいまくる人たち。
そして店内にもその“騒ぎ”が飛び込んでくる。応戦して、お客も、手に持っていた、コップの水をぶちまける。
心の中で「マイペンライ」と呟きながら、僕は“水掛け主戦場”へと繰り出した。
ピックアップトラックの荷台に乗った少年に突然、水をかけられた。彼は、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
4月13日、僕はスコータイからの夜行バスでチェンマイに着いた。
バックパックを背負って、遠距離バスターミナルに降り立つと、いつものように僕は、トゥクトゥク(三輪タクシー)に乗り込んだ。
「安宿なら、旧市街に行けばいくらでもある」と、意気揚々と旧市街に向かうように指示をした。
まだ旧市街には達していないところで、何の前触れもなく、トゥクトゥクは停まった。「降りて、ここからは歩いてくれ」と言う。
普段は、“微笑みを絶やさず”に、うざいほど最後まで旅行者につきまとう彼ら。そして、何とか宿のマージンを手に入れようと、あるいは、その後の旅行をアテンドさせて欲しいと買って出てくるはずなのに…
不思議に思ったが、料金も良心的だったこともあってか、「まぁいいか」という気持ちで、とぼとぼ歩き出すことにした。
◎タイ人の「世渡り上手力」
「政治的に不安だから旅行者は気をつけるべし」という声を良く聞く。しかし、僕の経験則から言って、気をつけるべきは、「日本に帰る時間」だけだ。
彼ら、タイ人の「世渡り上手力」は歴史的にも証明されている(第1次世界大戦や第2時世界対戦での彼らの列強に対する振る舞いを見ればよくわかる)通り、飛び抜けて高い。
だから、彼らは外国人旅行者を巻き込んだらどうなるかくらい心得ている。政治的要因で、日本人やその他外国人に危害を加えることは、ほとんど考えづらい。
ただし、こと「交通機関」に関してはそうはいかない。空港を占拠されれば、日本へ帰ることはできない。旅行の翌日に、日本で「重要な会議」を控えている人間は大いに気をつけるべきだ。
「日本にどうしても大事な会議があるから通してくださいな」と、お願いしようがお構いなし。微笑みを絶やさずに、「マイペンラ〜イ(問題ないよ)」と言われるだけで、日本へは帰れないだろう。
◎マイペンライが恐いワケ
旧市街に着くと、とんでもない状態になっていた。4月13日〜15日の旧正月に執り行われる、水掛祭り(ソンクラーン)のまっただ中だったのだ。中でもチェンマイのそれは有名で、日本でも知れ渡っている。
僕は今日がその日だと言うことをてっきり忘れて、何の用意もないまま、この地に降り立ってしまったのだ。
ソンクラーンでは、外国人旅行者もへったくれもない。とにかく水をかけまくる。こちらがどんなに高価なカメラを持ち、どんなに大きなバックパックを背負い、どんなに身振り手振りで許しを乞おうが彼らは微笑みながら、水を掛けてくる。20万円のカメラが再起不能になろうが、「マイペンライ」なのだ。
時には死人だって出る。高速で走るバイクに向かって、思い切りバケツの水をぶちまけるから、転倒事故が後を絶たないのだ。
実際に、僕もバイクで時速40キロを出して走っているところを、木の陰に隠れた少年に水をかけられ、あやうく転ぶところだった。それでも彼らは「マイペンライ」だ。
◎デジカメを守れ!
とにかく、デジタルカメラとパスポートと紙幣(2000ドル+10万円)だけは守ろうと、何重にもビニール袋を被せ、バックパックの奥底にしまい込んだ。
と同時に、後ろから水をかけられた。振り向くと、ピックアップトラックの荷台に乗った少年が、これぞ「したり顔」という顔をして、僕に微笑みかけていた…
ぎりぎりのタイミングだったので、本当に危なかった。
何とか安宿に着いたが、そのときには全身水浸し状態。
あーあと思いながら、バックパックを開けて、最重要荷物が無事なことを確認すると、僕は、荷物を放り出して、目をつけておいた食堂に行った。全身濡れたままで…
ずぶ濡れの僕を見ても、全く驚かない店主。うまい食事。40℃近い日照り。そして、ビール。店の前では、水をかけあいまくる人たち。
そして店内にもその“騒ぎ”が飛び込んでくる。応戦して、お客も、手に持っていた、コップの水をぶちまける。
心の中で「マイペンライ」と呟きながら、僕は“水掛け主戦場”へと繰り出した。
2010年2月3日水曜日
アムステルダムでの出来事
帰り際、浮ついた気持ちが一気に地へと落ちた。突然、一緒に肩を並べて歩いていた旅の連れ合いが胸ぐらをつかまれ、暗闇に引き込まれていった。彼らが黒人だったせいか、街灯の明かりが届かない路地裏だったせいか、二人組みのその姿にはまったく気付いていなかった。
「お前はそこから動くんじゃない」
背の低い、いかにも弟分の方が、僕の担当のようで、すごんできた。僕は、恐る恐る、目を凝らして連れの様子を見ると、連れ自身のほうからも黒人の胸ぐらを掴み返している。
「なかなか、やるなぁ」なんて、思いながら、僕は彼を助けるために一歩踏み出そうとした。
ネパールのカトマンズには、長旅を続ける旅人が数多くいる。彼らの多くは沈没系だ。(それが良い悪いは別として、同じ地域にじっくりと留まる旅のスタイルで、そしてそれは怠惰による場合が多いように思う) 暇なのか、ただ単純に、日本語が恋しいのか、彼らの多くは、色んな旅の逸話を語る。僕が出会った、一人の男も、その夜、僕に、忠告した。「いいか、よく聞けよ。これからユーラシア大陸を西へ向かうのだったら、アムステルダムの飾り窓周辺には気をつけたほうがいいぜ。同じ宿にいた、日本人大学生3人組が、夜中の3時に飾り窓へ意気揚々と出て行った。だけれど、戻ってきたのは2人だった。俺は助けを求められて、宿のみんなで、その大学生を探したが、結局その日は見つからなかった。数日後、彼は、アムステルダム郊外で、身包み剥がされた状態で、保護されたよ」
そんな忠告も、“コーヒーショップ”での一服で、気分が浮かれている僕はまったく忘れていた。不運にも、僕らは飾り窓周辺で、人気のまったくない路地裏の中の路地裏へ足を踏み入れてしまっていたのだ。
僕は友人を助けようと、歩み寄ろうとした。するとすかさず、弟分が「動くな」とつぶやく。それでも、振り切って近づこうとすると、連れが、黒人を押し始めた。すると、どんどん黒人は後ろへ下がっていく。おいおい、見掛け倒しかよ、と思いながら、僕も弟分の気持ちばかりの僕へのタッチを振り払ってみた。すると、あまりにもあっけなく彼の手をはじくことが出来た。
あれ?おかしいぞ。連れと僕は、目をあわせた。意見は一致したようだった。お互い、相手を、あっけないほど、簡単に振りほどき、何事もなかったかのように、歩き始めることにしたのだ。すると、彼らは振りほどかれたのに、ビックリした様子で、動きがとまってしまった。
黒人2人は、おそらく、ヤク中かなんかなのだろう。彼らのような人間は、意思がすごく弱く状況に流されやすい。
連れと僕は、「ザコだったね。筋肉もたいしてついてないし、ナイフを見立てて、ポケットから、棒状のものを突きつけてきたと思ったら、指だったし、ほんとなんちゃってだよな、がははは」
なんていう会話を交わしながら、宿への岐路に着いた。
その途中で、ピザスタンドによって、ピザをテイクアウトした。2人とも、受け取ったピザは、ぶるぶる震えて、うまく食べられなかった。心を落ち着けようと、連れはタバコを吸おうとポケットに手を入れると、タバコは盗られていた。「僕と連れは、目を合わせて、彼らはタバコがほしかっただけなんだな、がはは」と笑った。お互い震えに関しては、触れなかった。
見栄は、次の日で終わった。普通に昼間町\繁華街を歩いているときに、黒人が、悪ふざけで、「わぁ!」と驚かせようとしてきた。その言葉に反応して、僕らは2人とも驚いて、「うぁー!!」って言いながら猛ダッシュで逃げた。振り向くとその黒人は笑っていた。悪ふざけをしただけなのだ。
「ってかさ、正直びびるに決まってんじゃんなぁ」と、僕ら2人は目を合わせて頷いた。若さにつきまとう見栄は、時として、重大な行動の選択をかえてしまう、パワーがある、と感じた日だった。
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