◎サムローのおっちゃん
チャオプラヤ川を船で渡った先にあるトンブリ駅から、2時間ほど電車に揺られると着くのがカンチャナブリだ。タイの4月の猛烈な日照りの中、駅を降りて、ゲストハウスを見つけるために、とぼとぼと歩き始める。電車から降りた外国人観光客は2、3人しかいなかったので、案の定サムロー(自転車タクシー)に乗ったおっちゃんは僕のところへきた。
「どこいく?乗りなよ。いい宿を知っているから」
バンコクの宿にあった古いロンリープラネットで目を付けておいた「ポンペン」という宿にしようかなと漠然と思っていたので、
「宿はもう決めてあるし、その宿までは遠くない。だから君の助けはいらないよ」と彼に言った。するとすかさず、宿の名前を聞いてきたので、僕は「ポンペンだ」と答えた。おっちゃんは笑顔になって、自分のきているTシャツを指差して、「ほら、お前が行きたいポンペンはここだろう。俺はスタッフだ。連れて行ってやるから早く乗りな」見ると、確かに彼のTシャツには、『PongPhen』とある。僕は、始めからそう言ってくれよなと思いながら、猛烈に暑い中を宿まで歩く必要がなくなった安堵感のままサムローに乗り込んだ。
◎カンチャナブリの宿
おっちゃんが、ぎこぎこと必死に漕ぐと、5分ほどで宿が集まる通りに着く。こじんまりとして、かといって田舎過ぎるわけでもなく、バンコクの次に訪れる町としては最適という感じ。ほのかにカオサンの陽気さが漂っていて、とてもいい。バックパッカーたちが、「明日もやることないけど、まぁいっかー」といった面持ちで、幸せそうな顔をしている。多分僕もしている。
宿に着く。しかし、いっこうにおっちゃんは僕を宿へ案内しない。おかしいなーと思いながら、自分でポンペンのフロントへ行く。敷地にプールが見える。宿の雰囲気はかなり素晴らしい。
「ごめんなさい、80バーツのシングルはいっぱいなのよ」フロントの女性に万遍の笑みで言われる。仕方がない。80バーツの部屋がありながら他の部屋に泊まって150バーツも払いたくなかったので、礼を言って他の宿へ移ることにした。
◎酷暑はヒトを熱しやすく冷めやすくする
ポンペンのスタッフであるおっちゃんにも礼を言って、隣の宿へ行こうとすると、腕をつかまれた。
「50バーツだ」
そうきたか。スタッフと思って、安心したのが間違いで、彼はただのサムローのおっちゃんだった。Tシャツもスタッフだから着ていたわけではなかった。
「さっきお金は?と聞いたら、ノープロブレム、スタッフ、スタッフ、オーケーカモーンと言ったじゃないか」
と言っても聞く耳なし。「わかった、お金は払うが、50バーツは法外な値段だ、5分しか乗っていないから10バーツ、いや20バーツでいいね」と言うと、おっちゃんは、これ見よがしに、汗をアピールし始め、こんなに汗をかかせて20バーツとは何さまのつもりだ、と凄んできた。それが騙すつもりだったのかというよりも、やり方があまり好きではなかったので、僕も負けじと、胸を張って威嚇した。そして彼に10バーツだけ右手に握らせて、「コップンカー!」と、強行突破!彼はそれでも追いかけてきてわぁわぁ叫んできた。「あーめんどくさいな」と思って20メートルくらい歩いたところで、振り返ると彼はそこから動いていなかった。
4月のタイはとても暑い。彼の気迫は2分と持たなかったようだ。
◎ビルマの空は美しい
結局、宿は近くにある「Jolly Frog BackPackers」というところで、シングル70バーツで泊まることができた。ここもロケーションが素晴らしくよく、日がな一日ほげーっと幸せにすごした。宿の庭は広く、芝生があり、そんなに高くない美味しいレストランもついている。クワイ川の桟橋まで降りることもでき、そこで泳げる。
川の対岸、つまり西側には、遠くにビルマ(ミャンマー)との国境の山々が連なる。毎日夕刻になると遠くにそびえるその山々には大きな雷雲が発生し、これでもかと稲光が光る。夕暮れのオレンジ色とその稲光が相まって、涙が出るほどきれいだった。
◎屋台での出来事
地元民で賑わう屋台でご飯を食べていたら、おじいさんに話しかけられた。中国人か?と聞かれたので、「イープン(日本人)です」と答えた。おじいさんは、遠いところを見るような目をして、「イープン」と小さな声でつぶやいた。そして、ぼそぼそと語り始めた。戦争時代のことを語っていることだけはわかった。でもタイ語なのでそれ以外はさっぱり。中国というフレーズだけ聞き取れた気がしたので、中国語で、中国?と聞くと中国語が少し話せることがわかった。そこで筆談を試みた。でも、彼は漢字はもうとうの昔に忘れたようで、首を横に振った。スコールが降りそうな気配がしてきたので、僕は一杯だけおごってもらったお酒の礼を言い宿に戻った。おじいさんは僕と話す間、ずっと遠いところを見る目をしたままだった。
2009年12月2日水曜日
2009年11月9日月曜日
インドの奥の深さ、ベトナムの奥深さ
◎インドの奥深さを感じた瞬間
僕はもう我慢できなかった。
2週間ほど前には宿のトイレまで我慢しようとして、宿のドアがなかなか開かず、トイレ一歩手前のところで、全部垂れ流すという恥をさらしていた。そんな経験があったので、今回は目についた最も近いトイレに急いで駆け込むことにした。インドのデカン高原にある田舎での出来事だ。
中に入ると、一目散に、便器へと向かった。しかし15ほどある便器はどれもうんこまみれで、足の置き場もなかった。とは言え、その程度ならば、何度も経験していた。「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、その中でもっともマシなトイレにしゃがみ込んで、無事便を終えることができた。
しかし、問題はそこからだった。もちろんトイレットペーパーなどない。はじめからこっちもそのつもりだ。
「さて、右手で水を注ぎながら、左手でゴシゴシやるか」という段になって、はじめて僕は気付いた。そこにあるはずのものがないのだ。そう、水がなかったのだ。水がなければ、お尻がきれいになりようがない。いままで、僕が経験したトイレは、どんなに汚くても、水瓶だけはあった。それで、お尻を洗うことだけはできた。しかし今回はその水が全くないのである。
やるべきことは明確だった。とにかく水を探しにドアから外に出るのだ。一念発起して、僕は下痢によって未だ湿っているお尻に、左手をあてがいながら、ズボンを上げ、外に出た。するとあっさり巨大な水瓶が見つかった。助かった!僕はすぐにそう思った。そりゃそうだよな、インド人だってケツ拭かなきゃだもんな、と。でも、それも間違いだった。
間違いとは、つまり誤算のことである。ここには大きな誤算が2つあった。
①水がものすごく汚い。
②巨大な水をすくうものが何もない
そう、この2つが僕のお尻の洗浄に立ちはだかる巨大な障害だった。
①に関して。外に丸出しの水は虫だらけだし、茶色く濁っている。しかしどうしようもなかった。なるべく水の表面だけをスライスするように使う、これだけが対処法に思えた。
②に関して。桶は何もない。考えられるのは、手だけだった。しかし、どう考えても手のひらだけでトイレまで水をこぼさずに持っていくことはできない。さらに、右手はズボンをおろすのに使うから、必然的に、左手で水を運ぶことになるのだが、それでは湿ったお尻をあてがう手がない。
その場で、立ったまま下半身丸出しになるしかなかった。僕はその場でズボンを脱ぎ、パンツも脱ぎ、下半身丸出しになって、ゆっくりと左手で、水瓶から汚い水をすくい、それを塗りたくるようにして、お尻を洗った。
意外にも気持ちがよかった。ウソだ。さすがに、あまり気持ちのよいものではなかった。
トイレから出ようとすると、インド人の男の子が現れて、トイレ代の50パイサを要求してきた。
そんなトイレから歩いてほんの数分のところに、フルーツを売るおじさんがいて、そこにマンゴーがあった。一個10円もしないそのマンゴーはとろけるような甘さで、僕は毎日しゃぶりついた。ホントに甘くてうまかった。
ゼロを発見した国はこうも、奥が深いものかと感心した瞬間であった。
◎ベトナムの奥深さを感じた瞬間
ガイドブックよるとベトナムの中で最も有名なビーチであるニャチャンビーチは、「世界でも有数のリゾート地であり、とてもきれいである」とあった。「ニャチャン」というそのエロそうな名前といい僕は、是非行ってみたいと思った。
世界遺産の町フエから、ベトナム名物、豪華スリーピングバスでニャチャンに着いたのは夜中だった。僕は宿を探すため、町を歩いた。
ニャチャンの町はゴミだらけだった。少しのスペースがあればそこはゴミ溜めとなっていた。暗い道を歩いているといつの間にかゴミに囲まれている、ということが何度もあったほどだ。
あーなんか中国のようだな、と感じた。においも近い。そんな中国が僕は好きだけど、ニャチャンには求めてない!と、僕はそう叫びたかった。
次の日の早朝4時に僕は朝日を見るために宿を出た。薄暗い町をしばらく歩いているうちに、あることに気付いた。ゴミがないのだ!僕は一瞬自分を疑った。しかし、どう周りを見渡してもゴミはきれいさっぱり取り払われていた。つまり。夜中の12時から早朝4時の間にゴミが全部掃除されたことになる。ベトナムすごい、単純にそう思った。目についた、湯気が立つ屋台へ行き、フォーを食べた。めちゃくちゃうまかった。
そのまま、ビーチへ行き、朝の4時30分にもかかわらず、ほんとうにたくさんのベトナム人がいた。水浴びをしたり、体操をしたり、歌を歌ったり。みんな笑顔だ。誇らしげだ。楽しそうだ。
1時間後、眠くなったので、宿に戻ろうと帰路についた。すると、先ほどめちゃくちゃうまかった、フォーの屋台のおばさんが屋台のすぐ隣のスペースにゴミを捨てまくっていた。まだ朝の6時前だというのに、結構な量のゴミが溜まっていた。
ベトナムの奥の深さを感じずにはいられなかった。
僕はもう我慢できなかった。
2週間ほど前には宿のトイレまで我慢しようとして、宿のドアがなかなか開かず、トイレ一歩手前のところで、全部垂れ流すという恥をさらしていた。そんな経験があったので、今回は目についた最も近いトイレに急いで駆け込むことにした。インドのデカン高原にある田舎での出来事だ。
中に入ると、一目散に、便器へと向かった。しかし15ほどある便器はどれもうんこまみれで、足の置き場もなかった。とは言え、その程度ならば、何度も経験していた。「大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、その中でもっともマシなトイレにしゃがみ込んで、無事便を終えることができた。
しかし、問題はそこからだった。もちろんトイレットペーパーなどない。はじめからこっちもそのつもりだ。
「さて、右手で水を注ぎながら、左手でゴシゴシやるか」という段になって、はじめて僕は気付いた。そこにあるはずのものがないのだ。そう、水がなかったのだ。水がなければ、お尻がきれいになりようがない。いままで、僕が経験したトイレは、どんなに汚くても、水瓶だけはあった。それで、お尻を洗うことだけはできた。しかし今回はその水が全くないのである。
やるべきことは明確だった。とにかく水を探しにドアから外に出るのだ。一念発起して、僕は下痢によって未だ湿っているお尻に、左手をあてがいながら、ズボンを上げ、外に出た。するとあっさり巨大な水瓶が見つかった。助かった!僕はすぐにそう思った。そりゃそうだよな、インド人だってケツ拭かなきゃだもんな、と。でも、それも間違いだった。
間違いとは、つまり誤算のことである。ここには大きな誤算が2つあった。
①水がものすごく汚い。
②巨大な水をすくうものが何もない
そう、この2つが僕のお尻の洗浄に立ちはだかる巨大な障害だった。
①に関して。外に丸出しの水は虫だらけだし、茶色く濁っている。しかしどうしようもなかった。なるべく水の表面だけをスライスするように使う、これだけが対処法に思えた。
②に関して。桶は何もない。考えられるのは、手だけだった。しかし、どう考えても手のひらだけでトイレまで水をこぼさずに持っていくことはできない。さらに、右手はズボンをおろすのに使うから、必然的に、左手で水を運ぶことになるのだが、それでは湿ったお尻をあてがう手がない。
その場で、立ったまま下半身丸出しになるしかなかった。僕はその場でズボンを脱ぎ、パンツも脱ぎ、下半身丸出しになって、ゆっくりと左手で、水瓶から汚い水をすくい、それを塗りたくるようにして、お尻を洗った。
意外にも気持ちがよかった。ウソだ。さすがに、あまり気持ちのよいものではなかった。
トイレから出ようとすると、インド人の男の子が現れて、トイレ代の50パイサを要求してきた。
そんなトイレから歩いてほんの数分のところに、フルーツを売るおじさんがいて、そこにマンゴーがあった。一個10円もしないそのマンゴーはとろけるような甘さで、僕は毎日しゃぶりついた。ホントに甘くてうまかった。
ゼロを発見した国はこうも、奥が深いものかと感心した瞬間であった。
◎ベトナムの奥深さを感じた瞬間
ガイドブックよるとベトナムの中で最も有名なビーチであるニャチャンビーチは、「世界でも有数のリゾート地であり、とてもきれいである」とあった。「ニャチャン」というそのエロそうな名前といい僕は、是非行ってみたいと思った。
世界遺産の町フエから、ベトナム名物、豪華スリーピングバスでニャチャンに着いたのは夜中だった。僕は宿を探すため、町を歩いた。
ニャチャンの町はゴミだらけだった。少しのスペースがあればそこはゴミ溜めとなっていた。暗い道を歩いているといつの間にかゴミに囲まれている、ということが何度もあったほどだ。
あーなんか中国のようだな、と感じた。においも近い。そんな中国が僕は好きだけど、ニャチャンには求めてない!と、僕はそう叫びたかった。
次の日の早朝4時に僕は朝日を見るために宿を出た。薄暗い町をしばらく歩いているうちに、あることに気付いた。ゴミがないのだ!僕は一瞬自分を疑った。しかし、どう周りを見渡してもゴミはきれいさっぱり取り払われていた。つまり。夜中の12時から早朝4時の間にゴミが全部掃除されたことになる。ベトナムすごい、単純にそう思った。目についた、湯気が立つ屋台へ行き、フォーを食べた。めちゃくちゃうまかった。
そのまま、ビーチへ行き、朝の4時30分にもかかわらず、ほんとうにたくさんのベトナム人がいた。水浴びをしたり、体操をしたり、歌を歌ったり。みんな笑顔だ。誇らしげだ。楽しそうだ。
1時間後、眠くなったので、宿に戻ろうと帰路についた。すると、先ほどめちゃくちゃうまかった、フォーの屋台のおばさんが屋台のすぐ隣のスペースにゴミを捨てまくっていた。まだ朝の6時前だというのに、結構な量のゴミが溜まっていた。
ベトナムの奥の深さを感じずにはいられなかった。
住みたいと思えたところ
◎8月のエルサレムに恋して
冬のエルサレムはどうかわからないけれど、8月に訪れた夏のエルサレムは最高だった。新市街にあるマハネ・イェフダ市場の活気。そこでは、焼きたての香ばしい匂いがするパンやたくさんのお惣菜が、食される瞬間を待ち、おいしくて安いワインが豊富な種類のチーズと出会うのを待っている。新鮮な野菜や果物も実にいろんな種類があり、オリーブやアンチョビなんかも種類が豊富で、歩いているだけで、いろんなサンドウィッチのレパートリーが頭をよぎり、よだれがたれてくる。この市場があるだけで、ここに住みたいと思えるほどだ。
また、市内の見所は旧市街に集まっていて、気負いせず歩いて観光が楽しめる。ゴルゴダの丘、嘆きの壁、岩のドームにオリーブ山。観光客が少し多めなのが気になるけれど、世界有数の観光地にしては、ゴミゴミ感が少ない。買い物も確かに値段を吹っかけられることがあるけれど、インドやエジプトやモロッコに比べれば、赤ん坊も同然。
それでもエルサレムに住みたい!って思えた最たる理由は、その気候にある。とにかく「風」がよい。からっとしていて、ほどよく冷たい風。その風は、世界でも指折りだ、と僕は感じた。ゲストハウスにいても、ちょっと窓を開ければ、その「風」が入ってきて、気持ちがよい。冷房も扇風機もその「風」の前では邪魔なだけだ。そして、澄んだ青い空…
ある日、夕刻に新市街を散歩していたら、ちょっとした芝生の広場でフリーライブに出くわした。芝生に寝転んで、ワインとチーズとパンでほろ酔いになりながら、優雅でクラシカルな音楽を聴きながら、この世で一番気持ちのよいと思える風を浴びながら過ごす時間は、「至福」としか言い表すことのできないものであった。
◎皇帝が愛したボスポラス海峡に臨むイスタンブール
ボスポラス海峡に臨むイスタンブールは、ローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国やオスマン帝国の首都であった。この町には実に長い長い歴史が存在する。交通や貿易の要所であったことがその最たる理由ではあるだろうが、イスタンブールはそれだけではない。歴史地域にある丘からのボスポラス海峡の眺めが、これがもうほんとうに最高なのである。
おそらくこの風光明媚な「景色」を我が物にしたくて、かつての君主たちはこの地を必死に得ようとしたのだと、僕には思えた。案外、貿易なんて二の次だったりする。人間の行動理由なんて実はそんなものだ。海は青く、空も青く、気候も素晴らしい。ゆったり海を眺めるのに申し分ない。それだけで、イスタンブールも住みたい町のランキングが上位に入る。
◎貧乏旅行者が愛したラマダン中のイスタンブール
日没が近づくと、イスタンブールの至る所で張られている巨大テントやワゴン車で食事の準備が始まる。人々は、仕事も遊びも観光もほったらかして、一斉に列をなす。そして、日没の合図が流れると同時にテントでは食事が配膳され、ワゴンではお弁当をばらまく。
僕がイスタンブールにいるとき、ちょうど断食(ラマダン)の時期であった。これはけっこう有名な話だけれど、イスタンブールでは、ラマダンの時期、無料の食事が至る所で食べられる。僕みたいな異教徒でも、邪見に扱われることもなく、食事を毎晩タダでいただくことができた。意外と物価の高いトルコを旅する貧乏旅行者にとってはひじょうにありがたかった。
とは言え、イスタンブールでは他の多くのイスラム地区とは違いラマダンでも店を開けているレストランも多く、昼間に食事をしようとしてもあまり困ることはない。だから、貧乏旅行者でないとしても、ラマダンだろうがイスタンブールを十分に楽しめるので、無駄な心配は無用なのである。
冬のエルサレムはどうかわからないけれど、8月に訪れた夏のエルサレムは最高だった。新市街にあるマハネ・イェフダ市場の活気。そこでは、焼きたての香ばしい匂いがするパンやたくさんのお惣菜が、食される瞬間を待ち、おいしくて安いワインが豊富な種類のチーズと出会うのを待っている。新鮮な野菜や果物も実にいろんな種類があり、オリーブやアンチョビなんかも種類が豊富で、歩いているだけで、いろんなサンドウィッチのレパートリーが頭をよぎり、よだれがたれてくる。この市場があるだけで、ここに住みたいと思えるほどだ。
また、市内の見所は旧市街に集まっていて、気負いせず歩いて観光が楽しめる。ゴルゴダの丘、嘆きの壁、岩のドームにオリーブ山。観光客が少し多めなのが気になるけれど、世界有数の観光地にしては、ゴミゴミ感が少ない。買い物も確かに値段を吹っかけられることがあるけれど、インドやエジプトやモロッコに比べれば、赤ん坊も同然。
それでもエルサレムに住みたい!って思えた最たる理由は、その気候にある。とにかく「風」がよい。からっとしていて、ほどよく冷たい風。その風は、世界でも指折りだ、と僕は感じた。ゲストハウスにいても、ちょっと窓を開ければ、その「風」が入ってきて、気持ちがよい。冷房も扇風機もその「風」の前では邪魔なだけだ。そして、澄んだ青い空…
ある日、夕刻に新市街を散歩していたら、ちょっとした芝生の広場でフリーライブに出くわした。芝生に寝転んで、ワインとチーズとパンでほろ酔いになりながら、優雅でクラシカルな音楽を聴きながら、この世で一番気持ちのよいと思える風を浴びながら過ごす時間は、「至福」としか言い表すことのできないものであった。
◎皇帝が愛したボスポラス海峡に臨むイスタンブール
ボスポラス海峡に臨むイスタンブールは、ローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国やオスマン帝国の首都であった。この町には実に長い長い歴史が存在する。交通や貿易の要所であったことがその最たる理由ではあるだろうが、イスタンブールはそれだけではない。歴史地域にある丘からのボスポラス海峡の眺めが、これがもうほんとうに最高なのである。
おそらくこの風光明媚な「景色」を我が物にしたくて、かつての君主たちはこの地を必死に得ようとしたのだと、僕には思えた。案外、貿易なんて二の次だったりする。人間の行動理由なんて実はそんなものだ。海は青く、空も青く、気候も素晴らしい。ゆったり海を眺めるのに申し分ない。それだけで、イスタンブールも住みたい町のランキングが上位に入る。
◎貧乏旅行者が愛したラマダン中のイスタンブール
日没が近づくと、イスタンブールの至る所で張られている巨大テントやワゴン車で食事の準備が始まる。人々は、仕事も遊びも観光もほったらかして、一斉に列をなす。そして、日没の合図が流れると同時にテントでは食事が配膳され、ワゴンではお弁当をばらまく。
僕がイスタンブールにいるとき、ちょうど断食(ラマダン)の時期であった。これはけっこう有名な話だけれど、イスタンブールでは、ラマダンの時期、無料の食事が至る所で食べられる。僕みたいな異教徒でも、邪見に扱われることもなく、食事を毎晩タダでいただくことができた。意外と物価の高いトルコを旅する貧乏旅行者にとってはひじょうにありがたかった。
とは言え、イスタンブールでは他の多くのイスラム地区とは違いラマダンでも店を開けているレストランも多く、昼間に食事をしようとしてもあまり困ることはない。だから、貧乏旅行者でないとしても、ラマダンだろうがイスタンブールを十分に楽しめるので、無駄な心配は無用なのである。
2009年9月2日水曜日
陸路で国境を超える①
◎2005年パリ〜バルセロナ
パリ発バルセロナ行きの列車は、フランス南西部の町、ナルボンヌを通過。気が付くと、窓から見える看板の表記がフランス語からスペイン語へ変わっていた。
国境を越えたのだ。人生2度目の陸路による国境越えだ。またしても何も起こらないことに、安堵と少しの退屈が混じった複雑な気持ちが揺らめく。やがて、小さな駅に列車は静かに停まる。窓から見える乾燥した住宅街と長い乗車時間の疲れが複雑に絡まり合い、静寂が乗客を包んでいた。
「動くな!」国境警備隊とおぼしき3人の男が突然入ってきた。一瞬にして静寂が緊張へと変わる。
やがて僕の番が来て「You English?」「Yes」──と、片言の英語でいろいろ質問され、片言の英語で応答。
シュンゲン協定のおかげで、煩雑な出入国審査は不要だ。猜疑心が頭から離れない僕は、パスポートの提示を拒んだ。しかし、
「ハリーアプ!」と、凄まれ勢いに気圧されてしぶしぶ手渡した。「Yes」という言葉とともに、僕のパスポートは投げ返された。問題ないようだった。
3列前の黒人親子は連れ出されていった。窓から見える彼ら親子の表情は、乾燥した大地にとけ込み、静かにゆがんで見えた。
◎2008年アンマン〜エルサレム
ヨルダン側の国境ゲートは、外国人専用の部屋へ通されるため、炎天下に並ぶ百人以上の列をやり過ごすことができた。そこでパスポートではなく別紙に出国スタンプを押してもらう。イスラエルの出入国スタンプを避けるためである。それがあると、2度とイスラム圏の国へは出入国できなくなるからだ。
ヨルダンの首都アンマンから国境キングフセイン橋を超えてエルサレムへ向かうルートは、中東を旅する者にとって有名で、そのルートにおける注意点は周辺国にある多くのゲストハウスの情報ノートに記載されているほど。
最も注意すべきは、パスポートの別紙を使用するという点で、最も素晴らしいのは、イスラエルの国境警備員は美人ばかりで、かつ長時間にわたって詰問されるため、そういうのが好きな人にはたまらないという点だ。
キングフセイン橋を専用バスで渡るとそこからイスラエル。ヨルダン側とは違い、イスラエル側の国境ゲートは、とても立派だ。
アメリカ人はVIPという窓口でほとんど素通りで入国していく中、日本人の僕は、外国人用の窓口に並ぶ。前には20人ほど並んでいた。2時間弱でようやく僕の番になる。笑顔でパスポートを渡す。いろいろ質問をされ、情報ノートに載っていた模範解答を答えていく。
しかし突然、美人イスラエル人の顔が曇る。あなた、どうしてパキスタンのビザがあるの?僕は予想していなかった質問にたじろいだ。「ただの観光だよ」と答えたが、通用せず別室へ呼ばれた。
別室では、CITI BANKの国際キャッシュカードがあるだけで、現金もクレジットカードもなかったことなどを突っ込まれた。それでもなんとか押し問答を続けているうちに、無事、別紙に入国スタンプをもらえた。
僕が入国スタンプを押してもらえたのに要した時間は、5時間くらいだった。その間、何人ものパレスチナ人がひれ伏し、泣き叫ぶ姿を見た。近代的な建物にその悲痛な叫びは吸い込まれ、異様な風景だと僕は感じた。
◎ヨルダン〜シリア
アンマンからシリアの首都ダマスカスへと国境を渡るルートは、いくつものバス会社が運行している。一般的なルートである。
スタンプは別紙に押してもらったので、僕のパスポートにイスラエル入国の痕跡はない。ビザなしでも問題なく、日本人はシリアへ入国できるはずだった。
自信満々に、シリア側のイミグレーションオフィスへ並び、5分ほどで僕の番になる。しかし、5秒ほどで出入国管理のおじさんは険悪な顔になった。
「ヨルダンへ帰れ!」スゴい勢いで怒鳴りつけられた。荒涼たる大地に立つ、イミグレーションオフィスにその罵声は、至極まっとうな気がして、焦りが余計に 増す。入国拒否スタンプを押されたら、イスラム圏の出入国は一切できなくなることは有名だ。ヤバい!とっさにパスポートを奪い取る。睨まれた。
僕はバスのヨルダン人添乗員に助けを求めた。「1ドルよこしなさい」彼は僕の1ドルをパスポートに挟んで再提出した。それでもおじさんは相手にしてくれ ない。「なぜ」としつこく聞くと、「お前は、イスラエルへ行った」とイスラエル入国の際に張られた小さなシールの糊の跡が少し残っていることを指摘してき た。急いで、パスポートをツバとシャツとで拭った。「どうだ!」と渡すと、今回だけは許してやろうといった感じで、ようやく入国スタンプをもらえた。
◎シリア〜トルコ
このときもらえる、入国スタンプには3日以内に出国しなければいけない旨が仏語で書いてあった。なので、2日目に、ダマスカス市内にある出入国管理局へ出向き、2週間の観光ビザをもらおうとした。しかし、どうあがいてもくれなかった。僕は諦めて、オーバーステイで少しくらい罰金を払ってもいいかなと思い2週間後、そのままトルコとの国境へ向かった。入国の際あれだけいざこざがあったのに、オーバーステイのパスポートでのシリア出国は、2分くらいで、罰金もなくスムーズに終わった。今ではシリアから10倍に跳ね上がるトルコの物価を暗示していたように感じる。「もっとシリアにいればいいのに」と。
パリ発バルセロナ行きの列車は、フランス南西部の町、ナルボンヌを通過。気が付くと、窓から見える看板の表記がフランス語からスペイン語へ変わっていた。
国境を越えたのだ。人生2度目の陸路による国境越えだ。またしても何も起こらないことに、安堵と少しの退屈が混じった複雑な気持ちが揺らめく。やがて、小さな駅に列車は静かに停まる。窓から見える乾燥した住宅街と長い乗車時間の疲れが複雑に絡まり合い、静寂が乗客を包んでいた。
「動くな!」国境警備隊とおぼしき3人の男が突然入ってきた。一瞬にして静寂が緊張へと変わる。
やがて僕の番が来て「You English?」「Yes」──と、片言の英語でいろいろ質問され、片言の英語で応答。
シュンゲン協定のおかげで、煩雑な出入国審査は不要だ。猜疑心が頭から離れない僕は、パスポートの提示を拒んだ。しかし、
「ハリーアプ!」と、凄まれ勢いに気圧されてしぶしぶ手渡した。「Yes」という言葉とともに、僕のパスポートは投げ返された。問題ないようだった。
3列前の黒人親子は連れ出されていった。窓から見える彼ら親子の表情は、乾燥した大地にとけ込み、静かにゆがんで見えた。
◎2008年アンマン〜エルサレム
ヨルダン側の国境ゲートは、外国人専用の部屋へ通されるため、炎天下に並ぶ百人以上の列をやり過ごすことができた。そこでパスポートではなく別紙に出国スタンプを押してもらう。イスラエルの出入国スタンプを避けるためである。それがあると、2度とイスラム圏の国へは出入国できなくなるからだ。
ヨルダンの首都アンマンから国境キングフセイン橋を超えてエルサレムへ向かうルートは、中東を旅する者にとって有名で、そのルートにおける注意点は周辺国にある多くのゲストハウスの情報ノートに記載されているほど。
最も注意すべきは、パスポートの別紙を使用するという点で、最も素晴らしいのは、イスラエルの国境警備員は美人ばかりで、かつ長時間にわたって詰問されるため、そういうのが好きな人にはたまらないという点だ。
キングフセイン橋を専用バスで渡るとそこからイスラエル。ヨルダン側とは違い、イスラエル側の国境ゲートは、とても立派だ。
アメリカ人はVIPという窓口でほとんど素通りで入国していく中、日本人の僕は、外国人用の窓口に並ぶ。前には20人ほど並んでいた。2時間弱でようやく僕の番になる。笑顔でパスポートを渡す。いろいろ質問をされ、情報ノートに載っていた模範解答を答えていく。
しかし突然、美人イスラエル人の顔が曇る。あなた、どうしてパキスタンのビザがあるの?僕は予想していなかった質問にたじろいだ。「ただの観光だよ」と答えたが、通用せず別室へ呼ばれた。
別室では、CITI BANKの国際キャッシュカードがあるだけで、現金もクレジットカードもなかったことなどを突っ込まれた。それでもなんとか押し問答を続けているうちに、無事、別紙に入国スタンプをもらえた。
僕が入国スタンプを押してもらえたのに要した時間は、5時間くらいだった。その間、何人ものパレスチナ人がひれ伏し、泣き叫ぶ姿を見た。近代的な建物にその悲痛な叫びは吸い込まれ、異様な風景だと僕は感じた。
◎ヨルダン〜シリア
アンマンからシリアの首都ダマスカスへと国境を渡るルートは、いくつものバス会社が運行している。一般的なルートである。
スタンプは別紙に押してもらったので、僕のパスポートにイスラエル入国の痕跡はない。ビザなしでも問題なく、日本人はシリアへ入国できるはずだった。
自信満々に、シリア側のイミグレーションオフィスへ並び、5分ほどで僕の番になる。しかし、5秒ほどで出入国管理のおじさんは険悪な顔になった。
「ヨルダンへ帰れ!」スゴい勢いで怒鳴りつけられた。荒涼たる大地に立つ、イミグレーションオフィスにその罵声は、至極まっとうな気がして、焦りが余計に 増す。入国拒否スタンプを押されたら、イスラム圏の出入国は一切できなくなることは有名だ。ヤバい!とっさにパスポートを奪い取る。睨まれた。
僕はバスのヨルダン人添乗員に助けを求めた。「1ドルよこしなさい」彼は僕の1ドルをパスポートに挟んで再提出した。それでもおじさんは相手にしてくれ ない。「なぜ」としつこく聞くと、「お前は、イスラエルへ行った」とイスラエル入国の際に張られた小さなシールの糊の跡が少し残っていることを指摘してき た。急いで、パスポートをツバとシャツとで拭った。「どうだ!」と渡すと、今回だけは許してやろうといった感じで、ようやく入国スタンプをもらえた。
◎シリア〜トルコ
このときもらえる、入国スタンプには3日以内に出国しなければいけない旨が仏語で書いてあった。なので、2日目に、ダマスカス市内にある出入国管理局へ出向き、2週間の観光ビザをもらおうとした。しかし、どうあがいてもくれなかった。僕は諦めて、オーバーステイで少しくらい罰金を払ってもいいかなと思い2週間後、そのままトルコとの国境へ向かった。入国の際あれだけいざこざがあったのに、オーバーステイのパスポートでのシリア出国は、2分くらいで、罰金もなくスムーズに終わった。今ではシリアから10倍に跳ね上がるトルコの物価を暗示していたように感じる。「もっとシリアにいればいいのに」と。
2009年8月3日月曜日
下痢にはなったけれど楽しかったこと
連日のスコールの影響で、湖に向かう道は絵に描いたようなドロドロ道だった。
シェムリアップから原付3人乗りで向かったわれわれ「トンレサップ湖探険隊」は、トンレサップ湖畔まで残り1キロほどの泥道で立ち往生。
「もう諦めて歩こう」という意見で一致した僕と将君を尻目に、探検隊唯一のカンボジア人であり、また隊長でもあるアダム君は「乗れ、心配するな、はやく!」と意気揚々、原付にまたがっている。僕ら一兵卒の人間に口を挟む猶予などなかった。太陽はもう手に届くところまで落ちてきているのだ!
「ベチャャャ〜〜」
凄い音に、恐る恐る振り返る。一番後ろに乗っていたはずの将君が泥だらけで倒れていた!やっぱり。。。
僕は叫んだ。「アダム君!僕はここからもう自分の脚で走る!もう君の後ろには乗りたくない」僕は裸足になって、スケートのような格好で走った(滑った)。手に持ったカメラを壊されてはたまらない。後ろでは泥んこの将君とアダム君が何度も転びながら、必死についてくる姿があった。
トンレサップ湖に着くと、まず僕がしたのは船頭さんにマルボロメンソールを献上したことだった。というのも、乗れと言われた船がとてつもなくオンボロだったため、何とか安全のうちにその航海を終わらせてもらいたいという願いを込めて渡したのだ。
これで安全運転のうちに船旅を終えられるだろう。「さぁ出航!」と、張り切っていると、いつの間にか、アダム君が船から降りて手を振っているのに気付く。しかもその手にはマルボロメンソールが!おい、アダム!どういうことだ!僕ら2人がいくら叫んでも、アダム隊長はただ笑って手を降るだけであった。
予想に反して船は順調に進み、トンレサップ湖上生活者の船の家に着いた。そこではワニが飼われていて、棒でつついて遊んでいると、比較的きれいな船に乗って西洋人観光客が大挙してやってきた。
彼らは僕に、「君たちはこのワニを食べるのか」と質問してきた。
僕はとっさにガイド役を務め、このワニは来週ミディアムレアで食べるだとか、ここで買えばワニ革が君たちの国の半額で買えるだとか、3日に1度は水上散歩をしないとストレスで死んでしまう、首輪をつけるのが一苦労だ、などと適当なことをガイドした。彼らは僕のことをカンボジア人だと思っているようだった。
長い旅をしていると、日本人以外に間違われることが、ひじょうに多くなってくる。だいたい10回に8回くらいは間違われる。ビルマでは、「君はタイ人だ、なぜ日本のパスポートを持っている」と国境で詰問されたし、ベトナムでは、カンボジア人に間違えられた。バングラデシュでは、サインを求められた。
お目当ての夕日までまだ時間があったので、現地の女の子たちがその姿を見てキャーキャー騒ぐ中、僕は裸になって褐色の湖へ飛び込んだ。
かなり沖まで来ていたので、びっくりした。というのも水深が胸のところまでしかないからだ。そして脚が泥にはまっていく!10センチ、20センチ、30センチ。。。やばい!泳がなくては!
優雅な平泳ぎ。肌にとろとろの水が触れ合い気持ちがよかった。たまにヌルリとしたものが脚をかすめたが、まぁナマズかなんかだろうとやりすごした。
ガンジス川で泳いだときは、久美子ハウスの主人、シャンティさんに叱られて(ワニに食われるぞ!と怒鳴られた)満足に泳げなかったので、今回は、じっくりと泳くことができてよかった。
船にあがるとまた女の子たちが大騒ぎした。そして挙句に、養殖魚用の練りえさを投げつけてきた!僕はトランクス一枚だけ履いて、練りえさ攻撃に、習ったこともない空手で対抗!終わらない練りえさ攻撃に僕は、たまらず回し蹴りという大技を繰り出した。すると、彼女たちは一様に何かを叫びそして笑った。構わず何度も回し蹴りをした。
そのうちに、彼女たちの目線がおかしいことに気付いた。そう、トランクスの隙間から、ブツがはみ出していたのだ!さすがに恥ずかしくて、服を着た。服を着ると、彼女たちに誘われて、一緒に魚へ餌を与えた。
そうこうしているうちに、真っ赤で大きな夕日が湖面へと吸い込まれていくところであった。
小さい頃から地図帳を眺めるのが好きで、小学校のときから、社会の授業になると、地図帳を広げて眺めていました。(そのおかげで、めっぽう歴史に疎くなりましたが)「トンレサップ湖」はそんな小学校時代から、その奇妙な名前と、東南アジアで最大の湖という肩書きに惹かれ気になる存在でした。
世界地図だけを頼りに旅をしていた僕は、このトンレサップ湖は外せない、と喜び勇んでシェムリアップへ向かいました。しかし、アンコールワットのその有名さに反して、トンレサップ湖はあまり日の目を浴びていないようでした。
それにもかかわらず、一緒に行ってくれた、「トンレサップ湖冒険隊」のアダム君と将君にこの文章を捧げます。往路に「さすらい」を大合唱したこと、復路に、すっごい汚い屋台で食べたすっごいうまいヌードルのことは今でも鮮明に覚えております。それでは、お2人ともお元気で!
(将くん、はなしを脚色しているけれど勘弁してください!)
シェムリアップから原付3人乗りで向かったわれわれ「トンレサップ湖探険隊」は、トンレサップ湖畔まで残り1キロほどの泥道で立ち往生。
「もう諦めて歩こう」という意見で一致した僕と将君を尻目に、探検隊唯一のカンボジア人であり、また隊長でもあるアダム君は「乗れ、心配するな、はやく!」と意気揚々、原付にまたがっている。僕ら一兵卒の人間に口を挟む猶予などなかった。太陽はもう手に届くところまで落ちてきているのだ!
「ベチャャャ〜〜」
凄い音に、恐る恐る振り返る。一番後ろに乗っていたはずの将君が泥だらけで倒れていた!やっぱり。。。
僕は叫んだ。「アダム君!僕はここからもう自分の脚で走る!もう君の後ろには乗りたくない」僕は裸足になって、スケートのような格好で走った(滑った)。手に持ったカメラを壊されてはたまらない。後ろでは泥んこの将君とアダム君が何度も転びながら、必死についてくる姿があった。
トンレサップ湖に着くと、まず僕がしたのは船頭さんにマルボロメンソールを献上したことだった。というのも、乗れと言われた船がとてつもなくオンボロだったため、何とか安全のうちにその航海を終わらせてもらいたいという願いを込めて渡したのだ。
これで安全運転のうちに船旅を終えられるだろう。「さぁ出航!」と、張り切っていると、いつの間にか、アダム君が船から降りて手を振っているのに気付く。しかもその手にはマルボロメンソールが!おい、アダム!どういうことだ!僕ら2人がいくら叫んでも、アダム隊長はただ笑って手を降るだけであった。
予想に反して船は順調に進み、トンレサップ湖上生活者の船の家に着いた。そこではワニが飼われていて、棒でつついて遊んでいると、比較的きれいな船に乗って西洋人観光客が大挙してやってきた。
彼らは僕に、「君たちはこのワニを食べるのか」と質問してきた。
僕はとっさにガイド役を務め、このワニは来週ミディアムレアで食べるだとか、ここで買えばワニ革が君たちの国の半額で買えるだとか、3日に1度は水上散歩をしないとストレスで死んでしまう、首輪をつけるのが一苦労だ、などと適当なことをガイドした。彼らは僕のことをカンボジア人だと思っているようだった。
長い旅をしていると、日本人以外に間違われることが、ひじょうに多くなってくる。だいたい10回に8回くらいは間違われる。ビルマでは、「君はタイ人だ、なぜ日本のパスポートを持っている」と国境で詰問されたし、ベトナムでは、カンボジア人に間違えられた。バングラデシュでは、サインを求められた。
お目当ての夕日までまだ時間があったので、現地の女の子たちがその姿を見てキャーキャー騒ぐ中、僕は裸になって褐色の湖へ飛び込んだ。
かなり沖まで来ていたので、びっくりした。というのも水深が胸のところまでしかないからだ。そして脚が泥にはまっていく!10センチ、20センチ、30センチ。。。やばい!泳がなくては!
優雅な平泳ぎ。肌にとろとろの水が触れ合い気持ちがよかった。たまにヌルリとしたものが脚をかすめたが、まぁナマズかなんかだろうとやりすごした。
ガンジス川で泳いだときは、久美子ハウスの主人、シャンティさんに叱られて(ワニに食われるぞ!と怒鳴られた)満足に泳げなかったので、今回は、じっくりと泳くことができてよかった。
船にあがるとまた女の子たちが大騒ぎした。そして挙句に、養殖魚用の練りえさを投げつけてきた!僕はトランクス一枚だけ履いて、練りえさ攻撃に、習ったこともない空手で対抗!終わらない練りえさ攻撃に僕は、たまらず回し蹴りという大技を繰り出した。すると、彼女たちは一様に何かを叫びそして笑った。構わず何度も回し蹴りをした。
そのうちに、彼女たちの目線がおかしいことに気付いた。そう、トランクスの隙間から、ブツがはみ出していたのだ!さすがに恥ずかしくて、服を着た。服を着ると、彼女たちに誘われて、一緒に魚へ餌を与えた。
そうこうしているうちに、真っ赤で大きな夕日が湖面へと吸い込まれていくところであった。
小さい頃から地図帳を眺めるのが好きで、小学校のときから、社会の授業になると、地図帳を広げて眺めていました。(そのおかげで、めっぽう歴史に疎くなりましたが)「トンレサップ湖」はそんな小学校時代から、その奇妙な名前と、東南アジアで最大の湖という肩書きに惹かれ気になる存在でした。
世界地図だけを頼りに旅をしていた僕は、このトンレサップ湖は外せない、と喜び勇んでシェムリアップへ向かいました。しかし、アンコールワットのその有名さに反して、トンレサップ湖はあまり日の目を浴びていないようでした。
それにもかかわらず、一緒に行ってくれた、「トンレサップ湖冒険隊」のアダム君と将君にこの文章を捧げます。往路に「さすらい」を大合唱したこと、復路に、すっごい汚い屋台で食べたすっごいうまいヌードルのことは今でも鮮明に覚えております。それでは、お2人ともお元気で!
(将くん、はなしを脚色しているけれど勘弁してください!)
2009年6月22日月曜日
インド世界遺産hampi
◎ハンピとは
14世紀から17世紀頃に繁栄したビジャヤナガル王国の遺跡として1986年にユネスコ文化遺産に登録された、南インド山間部にハンピ(Hampi)はある。本当に、ここが世界遺産なのか疑うほど、活気が感じられない所だ。多くの場合、途上国の世界遺産では、観光客目当てに、混沌が生まれるのだが、ここにはそれがない。
◎ハンピのよさ
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。まあ歩いていれば、10分に一度は必ず声を掛けられるインドだけれど。「ユーはアメリカか」「ちがう」「じゃあユーはロシアか」「ちがう」すると、それじゃあいったい君は何なんだ。という顔をする。そんな空気感が良いのか、個人の外国人旅行客がちらほらいる。
◎ハンピ寂静の日々
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。彼の手には藤原新也の「印度放浪」があった。彼は、本を差し出してくる。これは暇つぶしに良いと思って手にしかけたけれど、理性が叫んだ。お金を取られるぞ!「いくらだ」僕は先に尋ねた。「ただだ」「本当か。僕は金がない」「大丈夫だ、心配するな」「本当か」「もちろん。ただ君の持っている本がほしいだけ。私の夢は、ここの棚を外国語の本でいっぱいにすることだ」なるほど、案内された彼の家の(安宿でもあるようだ)棚には、英語、日本語、仏語、独語、西語などの本が並んでいる。特に日本語、独語が多い。僕は読み終わっていた、妹尾河童の「河童が覗いたインド」を贈呈することにした。そして、その日と次の日たっぷり二日間かけて、印度放浪を静かな遺跡の片隅でのんびりと読んだ。悪くなかった。
◎ハンピの観光客
あるとき歩いていたら、インド人に声を掛けられた。写真を撮ってくれと言う。僕がカメラを肩にかけているのを見たのだろう。断る理由もないので撮った。話す。「ユーはヒンズーか」「違う」「我々はムスリムだ」「なるほど」「神はアッラーしかいない」「ふむふむ」「君は神を信じるか」「僕は神はいると思う。神は我々一人ひとりの心の中にいるんじゃないかな」「そうか、でも神はアッラーだ」そういって、彼らは満足そうに去っていった。さて、ハンピはヒンズー教の遺跡群である。そんなところに観光に来ているムスリムのインド人を見て、僕はなんだか幸せな気持ちになった。そもそも偶像崇拝が禁止のムスリムが写真を撮っていってほしいと言うところからして、ほっこりさせられる。おわり。
2009年6月16日火曜日
写真はカトマンズとカニャークマリ
寝てしまうものが好きだ。寝てしまう映画。寝てしまう小説。寝てしまう音楽。
いつの間にか寝ていて、やっべ、寝ちゃったよ。と思う。それにもかかわらず、体に、心にしみこんでいて、いつの日か、ふと、繋がって、それが思いもよらない気付きをもたらしてくれる。
そのとき僕はこう思う。あーそうか、自分の体にその何かを消化することにたくさん力を使ったから眠くなるのかと。わかりやすくって、おもしろくって、喜怒哀楽しちゃうものもよけれど、なかなかこういう気持ちにはさせてもらえない。
1Q84は比較的さらりと読めた。村上春樹がこれまでの小説で言いたかったことが、鮮明となって表れていたと感じた。きっと、これまでの作品のどれよりもうまく、自分の書きたいことがかけたのではないだろうか。と勝手に想像する。でも彼の言いたかったことは一貫してきている。これまでの小説にずっとにじみ出てき続けた。それがはっきりと言葉になったとき、それが今回の小説なのだろう。僕は、羊の巡る冒険あたりのもやもやとした、五回くらい読んで、五回とも途中何度も寝てしまって、でも読み続けて、それがある日、自分の日常生活に気付きをもたらせてくれる、そんな物語の方が、個人的には好きかも知れないな、とおもった。内容は、読んでみてください。言いません。
取捨選択のはなし。なんかの集まりと言うのは、たとえ、ある人が嫌いでも、その場の方を優先してその人に合わせようとする。それがマスであればあるほど、顕著に現れてくるように思う。
僕はたまたま個人的にそういうのが嫌いだったから、嫌いだから、今まで避けてきたし、今も避けている。出来れば個人対個人で、好きな人に会いたいし、嫌いなやつにも会いたい。
最近わかったことは、関係性がある程度の規模の集団だったとき、僕は個人という関係性に落とし込んで人間関係を作ろうとする、ようだ。ある人にとってはこれが好ましく映らないようだ。僕は、個人として人と接するなかで、たまたま、それが合わないで、こいつ退屈なやつだな、とか、あほだなとか、むかつくなとか、感じて生きていくというので大正解だと思うのだけれど、また、それが積み重なって出来た集合体には入っていきたいと思うけれど、そうでない、初めから集合を意識したり、個人的な関係でない部分で仲間を作ろうとすることははっきり言ってきょうみがありません。
子供だといわれても、社交性みたいなものがたりないなー、甘いなー、若いなーといわれても、いたしかたがありません。そうかんじるのです。人という器は、遅かれ早かれ、遺伝子によって捨てられるのだから、だったら僕は社交性なんかよりも、個人的な人間関係の中で、生きていきたいのだ。もしそれで立ち行かなくなって、本当に生きていけないような状況になったら、そのときまた考え直すことにします。ということで容易には考えを改めないでしょうということです。
ということで、大好きな皆さん、これからもよろしくおねがいします。こんなぼくですが、個人的な関係をこれからもつづけていきたいと思いますので。。。
いつの間にか寝ていて、やっべ、寝ちゃったよ。と思う。それにもかかわらず、体に、心にしみこんでいて、いつの日か、ふと、繋がって、それが思いもよらない気付きをもたらしてくれる。
そのとき僕はこう思う。あーそうか、自分の体にその何かを消化することにたくさん力を使ったから眠くなるのかと。わかりやすくって、おもしろくって、喜怒哀楽しちゃうものもよけれど、なかなかこういう気持ちにはさせてもらえない。
1Q84は比較的さらりと読めた。村上春樹がこれまでの小説で言いたかったことが、鮮明となって表れていたと感じた。きっと、これまでの作品のどれよりもうまく、自分の書きたいことがかけたのではないだろうか。と勝手に想像する。でも彼の言いたかったことは一貫してきている。これまでの小説にずっとにじみ出てき続けた。それがはっきりと言葉になったとき、それが今回の小説なのだろう。僕は、羊の巡る冒険あたりのもやもやとした、五回くらい読んで、五回とも途中何度も寝てしまって、でも読み続けて、それがある日、自分の日常生活に気付きをもたらせてくれる、そんな物語の方が、個人的には好きかも知れないな、とおもった。内容は、読んでみてください。言いません。
取捨選択のはなし。なんかの集まりと言うのは、たとえ、ある人が嫌いでも、その場の方を優先してその人に合わせようとする。それがマスであればあるほど、顕著に現れてくるように思う。
僕はたまたま個人的にそういうのが嫌いだったから、嫌いだから、今まで避けてきたし、今も避けている。出来れば個人対個人で、好きな人に会いたいし、嫌いなやつにも会いたい。
最近わかったことは、関係性がある程度の規模の集団だったとき、僕は個人という関係性に落とし込んで人間関係を作ろうとする、ようだ。ある人にとってはこれが好ましく映らないようだ。僕は、個人として人と接するなかで、たまたま、それが合わないで、こいつ退屈なやつだな、とか、あほだなとか、むかつくなとか、感じて生きていくというので大正解だと思うのだけれど、また、それが積み重なって出来た集合体には入っていきたいと思うけれど、そうでない、初めから集合を意識したり、個人的な関係でない部分で仲間を作ろうとすることははっきり言ってきょうみがありません。
子供だといわれても、社交性みたいなものがたりないなー、甘いなー、若いなーといわれても、いたしかたがありません。そうかんじるのです。人という器は、遅かれ早かれ、遺伝子によって捨てられるのだから、だったら僕は社交性なんかよりも、個人的な人間関係の中で、生きていきたいのだ。もしそれで立ち行かなくなって、本当に生きていけないような状況になったら、そのときまた考え直すことにします。ということで容易には考えを改めないでしょうということです。
ということで、大好きな皆さん、これからもよろしくおねがいします。こんなぼくですが、個人的な関係をこれからもつづけていきたいと思いますので。。。
でも素晴らしくよかったです。どれも素晴らしくよいということですね、つまり。
ドイツ行きたい!あうふびーだぜん!
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