2011年10月12日水曜日

ルアンパバーン行きのスロウボート 後半


●パクベンのレストラン

待てども待てども出てこない。というか店員さんの姿すら見えなくなってしまった。1時間たっても野菜炒めすら出てこなかった。ただただ時間だけが過ぎた。
「おいおいおいおい、メシ喰わせろ! おせーぞ、どうなってんだラオスさんよ!」
「お客さま、少々お待ちください。もうまもなく料理のほう出来上がりまして、お持ちいたします、それまでの間こちらのサラダをお召し上がりください」
「けっ、俺だからそこまで怒らんが、フツーの客だったら帰ってるぞ!」
なんていう状況にはならず、僕は日本人らしくクレームのクの字も言わずにジッと堪えた。いや堪えてすらいない。苛立ちすらなかった。なにせ、このBeer lao(ビアラオ)が美味いのだ。東南アジアのどの銘柄よりも。ビアラオを飲み、黄昏どきの涼しい風を全身に浴びていると、これ以上ない幸せに包まれた。
「あぁ、あるいはこのまま料理が出てこなければ、永遠にその幸せが続くのではないか」と、そう思えてしまう。
ついに1時間半を経過しても何も料理は出てこなかった。
……気づくとお兄さんが立っていた。
幸福感だけで腹は満たされないことに気づき始めた矢先だった。ようやく食べられる。この1時間半は美味しく料理を食べるための前菜だったのだと思えた。空腹は最大のおかずだ。いちおう、今後やってくる観光客のために「ふっふっふ、なんとか、寸でのところで怒られずにすんでよかったですな、社長さん!」と嫌みの一つくらいは言ってやろうかと思った。
が、彼の口から出てきたのは、「マリワナあるね」という言葉だった。僕は自分の目と耳を疑ったが、聞き間違いではないようだ。
ラオスはそう甘くはなかった。淡い期待は余計に自らを落胆させる。彼の手にはパッケージに包まれたタバコの葉のようなもの、出てきた言葉は東南アジアのプッシャーの常套句だった。そう、彼はプッシャー(密売人)だったのだ。料理はまだまだ遠いらしい…。
「マリワナ買わないか? 安くて上物だよ」
「いや、安いのはいいけど、ここレストランですよ…」
「ここ、警察いないからノープロブレムね。これで10ドル、どう?」と出してきたパッケージには、わんさかとマリワナが。これで10ドルは安すぎる。ごくりと喉の音がした。が、空腹のほうが上回った。
「僕はご飯を食べたいんだ。だからマリワナなんて要らない!」つい声が大きくなってしまった。彼はなぜこいつは大きい声を出すのかと、びっくりした顔で引き下がっていった。

●ビアラオの恐怖

何気なく外に目をやると、店員さんがレストランに戻ってくる姿があった。
「ど、どこいってったんだ!」もうさすがに、堪忍袋の緒が切れた。僕は彼に文句を言ってやろうとキッチンに向かった。
「おい、君」クラッチを握り、ギアを一気に2段上げる。
「どうなってるんだ!」さらにギアを上げ、4速に入れる。
悪気はないらしい。笑顔で振り返った彼に、畳み掛けようとギアを最大の5速に。
「り、料理は、まだ来な…」と言いかけて、彼の背後に整然とBeer laoが並んでいるのが目に飛び込んできた。う、愛しきビアラオ!
「料理は、まだ来なくてもいいから、とりあえずビアラオちょうだい!」
あぁ、ビアラオの恐怖。
パクベンには毎日のように僕らのようなバックパッカーが訪れる。このレストランもその恩恵に預かり、それなりにお客さんがやってくることは容易に想像できる。それでもこのゴーイングマイウェイでスローな接客のままなのは、そのほとんどがスローボートで夕方に着いて、翌日の早朝に村を出ていく一見さんばかりだからだろう。そしてみなビアラオの美味さに文句が言えず、安穏とした接客が続く。あるいは旅人たちがこのラオスでのノロい“接客体験”を武勇伝のように語ることも作用しているのかもしれない。
「いや、ラオスのレストランはさ1時間半も料理が出てこないんだよ、参っちゃったよ」と満面の笑顔を浮かべて語る姿を見て、周囲の人はみな「あぁ、そんなのもアリだな、だってラオスに行ったんだもの、そのくらいのことは経験としてむしろ味わいたいものだ」と感じるのかもしれない。そうしてこのレストランはいつまでたっても、このままなのである。

●新鮮な食材に舌鼓をうつ

パクベンのレストランについてツラツラ述べてきたが、実際のところ1時間半も料理が出てこないのは、注文を受けてから食材を買いに行くことによるところが大きい。
逆にそれだけ新鮮なのかもしれない。ラオスで牛肉といえば、水牛を指すことが多いが、総じてそんなに美味くない。が、ココで食べた1時間半待たされた水牛は結構イケた。

その日の宿であるゲストハウスに戻ると灯りが全て消えていた。そういえばレストランもいつの間にか看板の灯りが消え、それぞれの机にある頼りないランプの灯りだけになっていた。おそらく送電が終わったのだろう。停電かもしれない。
そこで合点がいった。レストランが食材を持たないのは冷蔵庫が意味をなさないからだろうと。一日に何度も電気が途絶えれば、肉はすぐに腐ってしまうだろう。だから備蓄はしない。当然の考えである。


僕らのスローボートは明朝、時間通りにパクベンを出発した。スローボートはルアンパバーンに向けゆっくりと進む。その船の歩みは、ただただメコン川の流れに身を任しているだけのように思える。

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